スペイン内戦の艦船
Spanish Civil War Vessels


※内燃機船シウダッド・デ・マホン Ciudad de Mahon。トラスメディタラニア海運会社 Trasmediterranea shipping companyは、1929年にカディス Cadizのエシェバリエタ&ラリナガ造船所 Echevarrieta & Larrinaga shipyardに、スペインの地中海側の港々~カナリア諸島 Canary Islands間のルート用の2隻の内燃機船を発注。ジェネラル・ヨルダナ General Jordanaとジェネラル・ベレンゲル General Berenguerと命名。君主制の崩壊に伴い、両方の船の名前が変更されジェネラル・ヨルダナはシウダッド・デ・マラガ Ciudad de Malagaに、ジェネラル・ベレンゲルはシウダッド・デ・マホンに改名。残念ながら、1936年1月にシウダッド・デ・マラガはラス・パルマス沖 Las Palmasにてイギリスの汽船に衝突され沈没し人命が失われた。軍事クーデターではカナリア諸島のシウダッド・デ・マホンは最初から国粋派の側にいた。この初期の段階では、彼女はカナリア諸島の7つの島の間だけを旅していただけだった。南の海域での海軍の覇権がなければ、国粋派軍は地中海とジブラルタル海峡 Strait of Gibraltar地域で非常に慎重だった。間もなく、シウダッド・デ・マホンはスペイン内戦のメトロポリタン Metropolitanに関与した。反乱の初めに、赤道ギニア Equatorial Guineaのスペイン植民地は共和派に忠実であり続け、共和派の巡洋艦メンデスヌニェス Mendez Nunezは1936年7月末にサンタ・イザベル Santa Isabelに到着し、巡洋艦の艦長とほとんどの士官を上陸させた後、 1936年8月中旬にスペインに航海した。9月19日、植民地警備隊とガーディア・シヴィル Guardia Civilは、フェルナンド・プー島 Island of Fernando Pooのブルゴス Burgos(反乱軍の首都)と植民地の首都サンタ・イザベルへの癒着を宣言した。しかし、本土ではコロニアル守備隊 Colonial guardのほとんどが忠誠心を保っていたため、島と大陸との通信は途絶えた。9月22日にKogoの国粋派軍と志願兵の小党がバタ Bataの町(本土で最も重要な町)を征服しようとしたが、KIAの黒人兵士2名を含む共和派軍に撃退された

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※共和派政府は植民地との通信を再開しようとしたが、非常に近代的な内燃機船フェルナンド・プー Fernando Pooがバルセロナ Barcelonaから出航し、9月30日にバタに停泊した(バルセロナからの数十名の左派民兵(アナーキスト?)がその旅でフェルナンド・プーでギニアに輸送されたともいわれる)。フェルナンド・プーと姉妹船ドミネ Domineはトラスメディタラニアの最も近代的な船であり、スペインの南の港と赤道ギニアからのルートを念頭に置いてエウスカルドゥナ Euskaldunaにて建造

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※バタでは、内燃機船フェルナンド・プーは、主に宗教(カトリックの宣教師と修道女)と町の保守的な要素の為に監獄船として使用された。その間、遠方作戦に適した唯一の船としての内燃機船シウダッド・デ・マホンは、カナリア兵器庫の限られた資源の中で、砲艦カノヴァス・デル・カスティーリョ Canovas del Castilloからの4インチ砲と、武装トロール漁船アルシラ Arcilaの3インチ砲を設置。上陸部隊はカナリアボランティア canary volunteersの2個中隊と4門の70㎜シュナイダー山砲 Schneider mountain gunで形成されていた(イフニライフルマンのテイバー Tabor歩兵部隊は2個中隊と砲が一緒に名前が付けられている。しかし、テイバーは少なくとも800名の大隊規模の部隊であり、シウダッド・デ・マホンを航海したすべての部隊は488人であり、将校も含まれていた。ヴェテランの歩兵部隊は、このはるかに二次的な前線よりも、半島ではるかに必要とされていた(この段階では、フランコ将軍 Gral. Francoとアフリカ軍はカスティーリャ高原 castillian plateauでモラ将軍 Gral. Molaの国粋派軍と接触しようとしていたともいわれる))。シウダッド・デ・マホンは10月4日の夜にラス・パルマスからギニアに偽名シウダッド・デ・マカオ Ciudad de Macaoでポルトガル船籍船として航海した。そこで3隻の船を拿捕し、ブルゴス植民地政府を占領した。シウダッド・デ・マホンは10月14日にバタに到着し、フェルナンド・プーへ降伏を要求するもライフル銃火で答えてきた。特設巡洋艦が定期船を砲撃し、2回の衝突で浮揚線付近に着弾し、火災が発生して船の浸水が始まった。シウダッド・デ・マホンからの搭乗隊が火事を制御しようとするも不可能であり、翌日、翌日、この豪華な船は寄港して浅海に沈んだ。10月14日にフェルナンド・プーを砲撃した後、特設巡洋艦によって運ばれた部隊がバタの制御を取って、次の週に植民地の残りの部分を占拠した。赤道アフリカでのスペイン内戦は終わった。このエピソードの直後、シウダード・デ・マホンは武装を解除され、1974年に払い下げられるまでカナリア諸島への旅を続けた

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※フェルナンド・プーの生き残った姉妹、ドミネにも興味深い人生があった。内戦が始まった時に国粋派軍に接収され、1936年10月には特設巡洋艦として武装され、特設巡洋艦シウダッド・デ・ヴァレンシア Ciudad de Valenciaと共にビスケー湾に送られた。しかし、北方海域での特設巡洋艦としての寿命は短かった。1937年1月に彼女はシウダッド・デ・パルマ Ciudad de Palmaと交代し武装解除されられた。輸送船として、彼女は非常に重要な政治的な旅の為に任務を与えられた:イスラム教徒の巡礼者(ほとんどがモロッコ北部のムーア人 mostly moorであり、モロッコはスペイン軍の中でも最も強固な部隊の一つであるモロッコ正規軍の新兵訓練所であった為、国粋派軍にとって最も重要な船だった:6万人以上のムーア人の兵士が国粋派軍に仕えていたが、殆どが常に突撃部隊として)をメッカに連れて行く為の船だった。マグレブ・エル・アクサ Magreb El Aksaとして、最も強力な国粋派軍の巡洋艦であるカナリアス Canariasとバレアレス Balearesに護衛された(この事実は、ブルゴスがこの旅に与えた重要性を裏付けている)。マグレブ・エル・アクサは3週間、紅海のマサワ Masawa港に停泊した。戻ってくる間、彼女は再びイタリアとスペインの軍艦に護衛され、セヴィリア Sevilleに到着した後、ドミネは最終的にメリリャ Melillaに行き、そこで旅を終えた。 ドミネは内戦中も輸送船として活躍した(ドイツ船アルヘンフェルス Archenfels、イタリア船ステルヴィオ Stelvioとして航行する事もあった)。第二次大戦終了後、彼女はギニアの植民地への旅を続けました。第二次大戦中は船体に大きなスペインの中立国旗が描かれていた。最終的に彼女は1975年に運用終了した

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※"Trasamediterranea's Bicycles"。4隻の高速旅客船兼貨物船兼郵便船のクラスは、19世紀後半にイタリアのNavigazione Generale Italianaの為にジェノバ Genoaにて建造。15年後に1隻はルーマニアに、3隻はスペインのCompania Valenciana de Correos de Africaに売却された(マルコ・ポーロ Marco PoloはV. プコール V. Pucholに、クリストフォロ・コロンボ Cristoforo ColomboはA. ラザロ A. Lazaroに、ガリレオ・ガリレイ Galileo GalileiはJ. J. シスター J. J. Sisterに改名)。7年後、このナヴィゲーション会社は他の会社と合併してCompaniaTrasmediterraneaを設立。この会社の旗の下で、トリオは内燃機船に改装され、steam reciprocating triple-expansion機関とボイラーをMAN製の10-cyl. ディーゼル・エンジン2基に変換、更に優れた3枚ブレード・プロペラが取り付けられた。1924年にロッテルダム RotterdamのFyenoord YardにてJ. J. シスターが改装され、1925年にV. プコール、1926年にA. ラザロどちらもバルセロナのFactoria Nuevo Vulcanoにて改装

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※"Trasamediterranea's Bicycles"。4隻の高速旅客船兼貨物船兼郵便船のクラスは、19世紀後半にイタリアのNavigazione Generale Italianaの為にジェノバ Genoaにて建造。15年後に1隻はルーマニアに、3隻はスペインのCompania Valenciana de Correos de Africaに売却された(マルコ・ポーロ Marco PoloはV. プコール V. Pucholに、クリストフォロ・コロンボ Cristoforo ColomboはA. ラザロ A. Lazaroに、ガリレオ・ガリレイ Galileo GalileiはJ. J. シスター J. J. Sisterに改名)。7年後、このナヴィゲーション会社は他の会社と合併してCompaniaTrasmediterraneaを設立。この会社の旗の下で、トリオは内燃機船に改装され、steam reciprocating triple-expansion機関とボイラーをMAN製の10-cyl. ディーゼル・エンジン2基に変換、更に優れた3枚ブレード・プロペラが取り付けられた。1924年にロッテルダム RotterdamのFyenoord YardにてJ. J. シスターが改装され、1925年にV. プコール、1926年にA. ラザロどちらもバルセロナのFactoria Nuevo Vulcanoにて改装。これらの船の最初の軍事行動は、1925年にモロッコ北部のアルホセイマ Alhucemas上陸だった。3隻の姉妹船(ただし、A. ラザロは約1.5m長かった)が地中海の港~北アフリカのスペインの都市間のルートに配置された。スペイン内戦の始まりは、アフリカにあったマラガ~メリリャ Malaga-Melilla間、V. プコールとA. ラザロは国粋派軍によって拿捕、J. J. シスターはマラガにあったので、彼女は共和派と一緒にいた。最初のものは、国粋派軍の海軍が海峡周辺海域の制海権を保証するまでアフリカに残り、120㎜砲1基、前方に102㎜砲2基、小銃と機関銃と60個の機雷を敷設することが出来る装置で武装されている機雷敷設艦としてカディスにて改装された

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※慎重に計画されたキャンペーンは1937年初めに行われ、カタルーニャ海岸 Catalonian coastにて敷設開始。V. プコールはベグル岬沖 Cape de Begurにて軽巡洋艦セルヴェラ Cerveraと敷設、ラザロはネグロ岬 Cape Negroとクレウス岬 Cape de Creus沖の重巡洋艦カナリアスに守ってもらいながら敷設していた。イギリスの貨物船1隻が損傷し、フランスの1隻が撃沈され、ギリシャの石油タンカーが乗組員もろとも撃沈され、スペインのタンカーが損傷し、カタロニア海域での航行に非常に重要な制限があった。この機雷敷設作戦の後、両艦は1937年2月下旬に客船マルケス・デ・コミーリャス Marques de Comillasの拿捕に従事した。国粋派海軍専用の機雷敷設艦(ジュピター Jupiterとヴァルカーノ Vulcano)が導入されたことで、V. プチョルとA. ラザロのペアは、煙突を短くして機雷敷設装置を撤去、普通の特設巡洋艦に生まれ変わった

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※J. J. シスターは、最初は刑務所の船として、次に半島~バレアレス諸島 Balearic Islands間の輸送船として、共和派によって使用された。1937年9月に彼女は蒸気船レイ・ハイメ Rey Jaimeと3隻の近代的な駆逐艦の護衛と一緒にメノルカ Menorca沖35マイルで護衛隊の一部であった、彼らは巡洋艦カナリアスを目撃し、駆逐艦は拿捕した輸送船を放棄し、2隻の砲艦の護衛と一緒にカディスに行き、その港で、J. J. シスターは迅速に変換され、102㎜砲を前部と後部に設置し特設巡洋艦として武装。トリオは、内戦の残りの殆どを地中海にて行動。"Bicycles"の最も重要な“賞品”の中には、エストニアの輸送船ポマロン Pomaronとソヴィエトのポスティシェフ Postishev(後にカスティージョ・デ・オリテ Castillo de Oliteと改名、戦争末期に悲劇的な運命をたどった)の両方があった。戦後、"Bicycles"は再びマラガ~メリリャ間のルートに割り当てられた。第二次大戦中は中立のカラーリング。兵役を終え、1960年代前半までそこに留まり、70年近く平和と戦争に従事した後に払い下げられた

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※スペイン内戦の間、石油供給の管理は極めて重要だった。そして、石油タンカーは海戦のこの部分で最も重要だった。スペインでは、1928年以来、全ての石油およびデリヴァティヴ取引がCAMPSA(CompaniaArrendatariadelMonopolio de Petroleos, SA)によって独占されていた。その年、同社はいくつかの中古石油タンカーを買収したが、1930年に野心的な拡張計画が始まった。2隻の10,800t、5隻の8,500t、1隻の4,700tと2隻の補助的な1,100tの真新しい船が、すべてスペインの造船所で建造された。 スペイン内戦勃発時、CAMPSAには111,000t近くの船隊があり、その殆どが新造船だった。11隻の主要な石油タンカーのうち、9隻は共和派の手にあり、2隻だけが国粋派の支配下にあった。したがって、国粋派側にとって、共和派の石油供給の混乱と自国の燃料の安全な輸送は、海軍作戦の最も重要な部分の1つだった。CAMPSA船隊の最大の石油タンカーはカンポアモール Campoamorとカンペアドール Campeadorで、バスク地方 Basque Countryのビルバオ BilbaoのEuskalduna造船所がSir Joseph Isherwood & Co. のライセンスで製造した10,800tの船だった。長さ138mで、14ktの能力を持つMAN式4ストローク・ディーゼル・エンジン2基を装備していた。近代的で快適で設備の整った船だった。戦争の初めに、カンポアモールはビルバオにいた、そして、彼女はサンタンデール Santanderにて4ヶ月間閉じ込められたままだった。1936年12月に彼女はフィラデルフィア Philadelphiaに行き、ポラックス Polluxという偽りの船名を使用してイギリス船籍の下で、非常に必要な量の航空燃料を持って戻ってきた。サンタンデール沖で、彼女は補助巡洋艦シウダッド・デ・ヴァレンシアに迎撃されたが、フランスのルヴェルドン港 harbour of Le Verdon(ボルドー Bordeaux)に向かい拿捕を免れた。その港で、彼女は国粋派の小さな部隊に捕らえられ、船長の助けを借りて、何人かの乗組員が船を拿捕し、1937年1月の第1週にフランス国境に近いバスク港 Basque harbourであるパサジェス Pasajesに進むことが出来た。彼女は深い負荷のために座礁、そして運ばれた燃料は北のキャンペーンの最も重要な段階であるビルバオの征服で国粋派の航空機用燃料として使われた。共和派は、潜水艦作戦でタンカーを沈めようとしたが、成功しなかった。1937年7月の最後の日、彼女は再浮上し、残りの戦争の間、メキシコ湾 Gulf of Mexico のアメリカの港(テキサコ Texacoは国粋派側の主要な石油源でした)とスペインの間の重要なつながりの為に非常に有用な部分だった。カンペアドールは南の海にいた。10月、国粋派の巡洋艦カナリアスとセルヴェラが近接してい為、彼女はフランス領モロッコのカサブランカ Casablancaにて共和派の駆逐艦グラヴィーナ Gravinaと一緒に拿捕された。しかし、共和派の艦隊がビスケー湾からやってきた時、両方の船はなんとか地中海に入り、マラガに安全に停泊した。彼女はバルセロナからソヴィエト連邦の黒海の港、主にバトゥム Batumまで数回航海した。 1937年8月、ルーマニアのコンスタンザ港 Romanian port of Constanzaから戻ってきたとき、彼女は2隻のイタリア駆逐艦に遮られた。共和派の巡洋艦カナリアスと補助巡洋艦のマヨルカ Mallorcaは、カンペアドールを拿捕する為に航海しようとしたが、前者は遠すぎ、後者は遅すぎた。8月12日、シチリア海峡 Straits of Sicilyで、イタリアの駆逐艦サエッタ Saettaは、ほぼ海賊行為で一対の魚雷を発射し、チュニス Tunisのケニトラ Kenitraから20.92㎞離れた地点で沈没するまでタンカーを砲撃した。乗組員42名中、12名死亡

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CAMPSAのために5隻の8,400t型オイル・タンカーがカディスとバレンシアの造船所で作られた。近代的でよくできた船だったが、大型のカンポアモールとカンペアドールの方が経済的で効率的な運用が可能であることがわかった。長さ127m、2基の4ストロークB&Wディーゼル・エンジンを搭載したこの船は、13ktの速度を出すことができた。スペイン内戦の開始時には、全ての船が共和派側に属していたが、カンパス Campasは戦争の最初の日にセヴィリア港を封鎖しようとしてグアダルキヴィル Guadalquivir川の河口で撃沈された。しかし、構造的な損傷を受けずに沈んだため、再浮上し、旧式のタンカーであるバダロナ Badalonaとともに、戦争の最初の数ヶ月間、国粋派軍が利用できる唯一のオイル・タンカーとなったのである。その段階では、イタリアからの航空燃料や、カナリア諸島のテネリフェ Tenerife(スペインの主要製油所があった)からスペイン本土へのガソリンの輸送に非常に重要な役割を果たしていた。最終的にカンパスは、1939年4月にビゼルタ Bizertaで降伏した共和派艦隊に燃料を供給した油槽船だった。1937年1月にカンプザノ Campuzanoは8,000tの軽油を積んでフランスのPort Saint Louis du Rhoneから戻ってくる途中、リヨン湾で巡洋艦カナリアスとセルヴェラに拿捕された。国粋派軍の旗の下、メキシコ湾のアメリカの港とカナリア諸島を結ぶ重要な航路にあった。カンポマネス Campomanesは何度かソヴィエト連邦に向かったが、1938年8月に国粋派の航空隊がバレンシアを爆撃し、沈没した。1年後に再浮上したが、第二次大戦中の1942年12月にビスケー湾で見知らぬ潜水艦から魚雷を受けた(恐らくフェロル Ferrolに停泊されていたドイツ船スピカーン Spichernとマックス・アルブレッチ Max Albretchを待つために潜航していたアメリカ海軍潜水艦バーブ Barb(SS-220)、艦長ジョン R. ウォーターマン少佐 Lieutenant Commander John R. Waterman)。機関室に2本の魚雷が命中し、カンポマネスはほぼ無力化された。幸い、夜間に数隻のトロール船と曳船に助けられ、フェロルまで曳航され、そこで修理することができた。カンペロ Camperoも共和派側に属していた。潜水艦ヘネラル・モラ General Molaの砲撃を受けたが、生き延びてバルセロナに行き修理を受けた。修理中、火薬庫として使われていた艀の爆発の影響を受け、ひどい目に遭った。この時も生き残った彼女は、終戦までマルセイユ Marseilleに逃げ込むことができた。最後にカンペチェ Campeche。1937年にバルセロナ沖で機雷に触れたが、なんとかバルセロナに戻ってきた。修理中に国粋派の航空爆撃を受けた。そののち、彼女はマルセイユに逃れ、終戦までそこに留まった

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※1930年のCAMPSA社の拡張計画では、セヴィリアの街と港を念頭に置いて、かなり小型のオイル・タンカーが考えられた。その為、グアダルキヴィル川のカーヴに対応できるように、限られた長さと、同様に限られた喫水の船でなければならなかった。こうして完成したのが、B&W社製の4ストローク・ディーゼル・エンジンを2基搭載し、軽快な13ktで航行出来る4,700tのカンピロ Campiloである。ヴァレンシアのUnion Naval de Levanteで作られた近代的な油槽船だが、エンジンはバルセロナで作られた(スペイン製の最初の海上用ディーゼル・エンジン)。カンピロは1934年に就役した。 しかし、民間ではカンピロの寿命は短く、同じ年にスペイン海軍が古い名前のまま、最初の艦隊給油艦としてこの船を購入したのである。CAMPSAは、同じ特徴を持つ別のタンカーを注文したが、この船は戦争が終わった後に引き渡された。 スペイン内戦の間、カンピロは共和派の色を身に纏い、カルタヘナ Cartagenaの他の海軍部隊とは別に、バルセロナの海軍本部の直轄地となった。1937年7月にバルセロナで巡洋艦カナリアスの砲撃を受け、損傷した。カンピロは1939年3月29日にカルタヘナから脱出した最後の船で、430名の難民を乗せてフランスに向かった。 スペイン内戦の終了後、国粋派主義者はこの船の状態が悪いことに気付き、数ヶ月後に再び就役し、その後1940年5月にプルトン Plutonと改名した。プルトンと、より近代的なテイデ Teideは約30年間、艦隊給油艦として活躍し、1970年に払い下げられた

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※ソータ・イ・アズナル社 Sota y Aznarはスペインの主要な海運会社だった。このバスクの会社は、石油とその派生品を輸入しようと、ダッチ・シェル Dutch Shellと交渉を始め、同じくバスクの造船所であるエウスカルドゥナ社 Euskaldunaにオイルタンカーを発注した。シェル社との交渉がうまくいかなかった事と、1927年にスペイン国内の石油取引を独占するCAMPSA社が設立される。つまり、石油事業は誕生前に消滅し、ソータ・イ・アスナルは唯一の石油タンカーを売却した。ソータ・イ・アズナル社は、船団で唯一のオイル・タンカー、アルツァ・メンディ Artza Mendiを売却した。 アルツァ・メンディは、Sir Joseph Isherwoodライセンスの蒸気タンカーである。全長114m、4,600tの船で、triple-expantion steam機関1基とボイラー3基を搭載し、10.5ktの速力を発揮した。1921年にスペインで最初のオイル・タンカーとして8,100,000ペセタ pesetasで建造されたが、1927年にCAMPSA社に2,100,000ペセタ(£65,000以上)で売却され、Zorrozaと改名された。 スペイン内戦の間、Zorrozaは主に地中海にいた。1937年3月に国粋派の潜水艦ヘネラル・サンフルホ General Sanjurjoによる魚雷攻撃を受け、2回の魚雷の命中を生き延びましたが、損傷しバルセロナに到着する事が出来た。同港で修理された後、1937年7月には油槽船2隻と貨物船1隻からなる小さな輸送船団の一員として、リヨン Lyon湾のフランス沿岸近くを航行していた。潜水艦ヘネラル・サンフルホが再びこの船団を発見し、砲撃を開始した(魚雷の装填を終えていた)。貨物船Andutz Mendiは激しい砲撃を受けたが、Zorrozaともう1隻のタンカーと同様にバルセロナに戻ることが出来た。戦後、Zorrozaは1965年に払い下げられるまでCAMPSAに在籍した

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※Arnusは、Compania de Tabacos de Filipinasが発注した船で、ココナッツ・オイルの貿易のために設計された。1922年にスワン・ハンター&ウィガム・リチャードソン社 Swan, Hunter and Wigham Richardson, Ltd. によって建造され、全長111m、6,500tの船で、ネプチューン・ディーゼル・エンジンを2基搭載していた。1928年にCAMPSA社に買収され(他の2隻のココナッツ・オイル・タンカーと一緒に)、Badalonaと改名された。1936年7月にはテネリフェからコルーニャ Corunaに向けて航行していた為、スペイン内戦開始時に国粋派軍の手中にあった唯一のオイル・タンカーであった。戦争が始まってからの非常に重要な数ヶ月間は、国粋派の艦隊の基幹である戦艦エスパーニャ Espana、巡洋艦カナリアスとセルヴェラ、駆逐艦ヴェラスコ Velascoの補給用の油槽船だった。しかし、保護措置としてカナリア諸島(スペインの主要な石油精製所はテネリフェにあった)に単独で航海する際には、シリウス Siriusという偽名でドイツの旗の下に航海した。1941年12月に船体に大きな中立旗が描かれていたにもかかわらず、モトリル Motril沖でドイツ海軍潜水艦U453(12、艦長Lt. Egon Reiner von Schlippenbach)に魚雷で撃沈され、3名が死亡

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※スペインの石油専売公社であるCAMPSAが設立された後、他の船会社の手に渡った公海石油タンカーは1隻だけで、この船はSTゴベオ ST Gobeoであった。トランク船型のゴベオは、Compania Cantabrica de Navegacionが所有していた船で、1921年にグラスゴーの造船所、Duncan & Co. で建造された。全長100m、4,900tのこの船は、2つのボイラーを備えた1基の三段膨張式蒸気機関を搭載し、理想的な条件(積荷がなく、船底がきれいで、天候に恵まれている事)で10ktの能力を発揮した。元々はドライ・カーゴ船として建造されたが、内部タンクをリヴェットで固定したオイル・タンカーに改造され、実質的に二重船体となった。コストは£220,000だった。5,400tの液体を積載することが出来たが、士官の居住性は悪く、船首の乗組員と船尾の機関部員の居住性はさらに悪かった。スペイン内戦では、殆どの船が北部の港に登録していた為、この船は共和派側に属していた。1936年8月には国粋派の駆逐艦ヴェラスコによって砲撃されたサントゥルセ Santurceの油槽所に残っていた油を救出することが出来た。この後、ビルバオを中心としたビスケー湾の幾つかの港から、オランダに数回、イギリスに少なくとも1回の航海を行った。ビルバオが国粋派の軍隊に包囲された時、ゴベオはこのバスクの港にいた。1937年6月16日にビルバオが国粋派の軍隊に包囲された時、ゴベオは難民を連れて脱出しようとしていたが、他の3隻の船と共に国粋派の武装トロール船ガレルナ Galernaに拿捕された。国粋派軍の手に渡ったゴベオは、カナリア諸島から国粋派領内のいくつかの港に向けて航行していた。しかし、補給船としての役割を果たす事もあり、少なくとも1937年9月には6インチ砲巡洋艦セルヴェラに1,100tの燃料を供給した。終戦後、この船は元の所有者に引き渡された。最終的にゴベオは1964年に払い下げられ、解体された

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※1930年のCAMPSA社の拡張計画の一環として、双子のカンプロドン Camprodonとカンパラン Campalansは、ヴァレンシアとバルセロナの港でバンカリング bunkeringする為の小さな油槽船だった。彼らはトランク・ハル・タイプ trunk hull typeの船で、満載時にはメイン・デッキがほぼ海面レヴェルになるが、1時間に600tの燃料を移動できる最新のポンプを装備していた。スペイン内戦中、カンプロドンは空爆を受けて沈没し、カンパランは共和派の崩壊とともに拿捕された。実際、カンパランは1984年に解体されたばかりである

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※1935年から1931年にかけて、ロスチャイルド家 Rothschild Familyはスペインに経済帝国を築き、鉱山から鉄道、銀行から19世紀のスペインで最も重要な石油精製所まで、様々な事業を展開し、子会社のDeutsch et Cie. を設立。Deutsch et Cie. は、1879年にロスチャイルド家とDeutsch de La Meurtheとの間で設立された会社で、コーカサス地方の地層から産出される石油を精製・販売することを目的としていた。1890年には、Deutsch et Cie. はスペインに5つの精製工場を持ち、約1億リットルの灯油を生産していた。1926年4月にDeutsch et Cie. はサンタンデール Santanderのサン・マルティン San Martinにあるコルチョ造船所 Corcho Shipyardに小型のオイル・タンカーを発注したが、8月に竣工し、El Leonと名付けられた。この船は、全長わずか38m、排水量600tの艀の様な船だった。Deutz製ディーゼル・エンジン1基と1軸を搭載し、速度は7ktと控えめだった。しかし、その翌年にCAMPSAが設立され、1928年7月に700,000ペセタを投じて購入した最初の船がまさにこのEl Leonだった。この船の生涯の殆どは、バンカーリング船としてバルセロナで過ごした。1965年に売却された

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※1923年、スペイン最古の海運会社であるコンパニア・トラソセアニカ Compania Trasoceanica(通称“スペイン航路 the Spanish line”)の最大の外航船、アルフォンソ13世 Alfonso XIII(2代目)が払い下げられた。これにより、トラソセアニカ社には2本の煙突を持つ船しか残らず、会社の威信を傷つけることになった(当時は、それ以上のことは無かった)。そこで、3隻のオーシャン・ライナーの骨組みが、SECN社の造船所の3つの異なるスロープに置かれた。ビルバオのエルカノ Elcano、カディスのマガリャネス Magallanes、フェロルのコミーリャス Comillasである。異なる工場で建造されたにもかかわらず、ほぼ同じ船型を持つ3隻の船は、総称して“3コミヤス the 3 Comillas”と呼ばれ、1928年11月には3隻の船が就役した。コミーリャスは、全長145m、排気量13,200tの格好いい船だった。5つのボイラー(石油を燃やす)と2つのタービン・セットで約8,000馬力を出し、15kt以上の速度を出した。乗客は一等客室150名、二等客室50名、三等客室40名で、600名以上の移民を収容できるスペースもあった。残念ながら、2番目の煙突は偽物で、実際には機能しなかった。外航船は、スペイン郵船の3つの主要航路に割り当てられた。地中海からコロンビア、ヴェネズエラへ、地中海からブラジル、リヴァー・プレート River Plateへ、ビスケー湾からキューバ、メキシコ、ニュー・ヨークへ。スペイン内戦中、Juan Sebastian Elcanoは共和派政府に徴用され、3回のソヴィエトへの航海を行ったが、最後の航海(1937年7月)ではオデッサ Odessaに収容され、共和国崩壊後の1939年にソヴィエトに接収され、Wolgaと改名された。第二次大戦中は、病院船に改造され、オデッサと改名された。戦後は民間に戻り、再びJakutiaと改名された。おそらく1960年代か1970年代に解体されたのだろう

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※マルケス・デ・コミーリャス Marques de Comillasも共和国旗を掲げていた。彼女は戦争の初期に病院船として使用されるために退役した。1936年8月から9月にかけて、共和派によるマヨルカ征服の不運な試みに参加した。最初の成功の後、共和派軍は同島の国粋派軍駐屯地の抵抗を抑えることが出来ず、退却を余儀なくされた。この失敗の後、コミーリャスはソヴィエト連邦からの輸送に割り当てられた。しかし、1937年2月にオデッサからの帰途、国粋派の巡洋艦バレアレスとセルヴェラ、そして補助巡洋艦マヨルカ、プチョル、ラザロに待ち伏せされ、共和派の港に逃げ込むチャンスもなく拿捕されてしまった。国粋派軍ではグレーに塗装され、兵員輸送や貨物船として使用された(主にイタリアから軍需物資を積んで、1937年後半だけで少なくとも6回の旅をした)。1938年1月と1939年1月には、コミーリャスは重要な政治的用途に割り当てられた。この旅は、ブルゴス(国粋派の首都)にとって非常に重要であったため、カナリアスとバレアレスという最も強力な国粋派の巡洋艦が、共和派沿岸の封鎖を突破する外航船の護衛に転用された。この年の残りの期間、コミーリャスは軍需物資を積んでイタリアの港(特にスペツィア Spezia)に向かっていた。スペイン内戦中のコミーリャスの最後の旅は、共和派艦隊の降伏船に乗船する国粋派の乗組員を乗せてビゼルタに向かったことだった。戦後は、マタゴルダ Matagorda(カディス)で改装され、偽のファンネルが取り付けられた。第二次大戦中は、何名もの船員(連合国や枢軸国の船から)を救助し、マガリャネスと共にスペインと海外のスペイン人コミュニティを結ぶ唯一の微妙な関係を保っていた。最後に、彼女は1959年までスペイン(おもにカナリア諸島)からヴェネズエラへの移民を輸送していた。1960年には、モロッコとスペインがイフニ Ifniをめぐって対立した際に、ふたたび兵員輸送の役割を果たした。そののち、最後の改装が行われ、900名乗りの1クラスのみの船に変更された。そして1961年11月にコミーリャスはフェロルで大火災に見舞われ、救いようがないと判断されて廃船となった

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※マガリャネスも共和派の手に渡り、姉妹船同様、ソヴィエトからの軍需物資の輸送に割り当てられた。しかし、2回目の航海となった1937年6月にオデッサからの帰途、イタリア船カポ・ピノ Capo Pinoに突っ込み、カポ・ピノは急速に沈んでいった。イスタンブール Istanbulの裁判官は、イタリヤ船の賠償保証としてこの定期船を差し押さえた。£75,000の罰金と£3,000の追加料金をトルコの港に支払った後、船主はトルコ共和国の当局と共和派政府(およびソヴィエトのエージェント)の両方から船を救出することが出来、内戦の最後の数ヶ月の間にカディスに到着した。カディスでは、イタリア船に突っ込んだ損傷は修復されたが、その際に2番目と煙突を失った。マルケス・デ・コミーリャスと共に、第二次大戦中から戦後すぐにかけて、大西洋を横断するスペイン船の中核を担っていた。終戦後は移民船として活躍し、1953年に払い下げられ、4年後にビルバオで解体された

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※ジェームズ・ワッツ卿 Sir James Wattsがイギリス海軍のE級軽巡洋艦を参考にして設計したアルミランテ・セルヴェラ Almirante Cerveraは、6インチ砲が1門多いにも関らず、舷側が8門対6門と優れており、主砲の配置も良く(全て中央線上に配置)、533㎜魚雷発射管を4基搭載した強力な魚雷武装を備えていた。更に、4門の4インチ単装砲により、当時としては十分な対空性能を備えていた。1927年に地中海で行われた海軍演習で、アルフォンソ13世 King Alfonso XIIIの個人的な王室旗を掲げたプリンシペ・アルフォンソ Principe Alfonsoが写っている。1931年の王政崩壊後、プリンシペ・アルフォンソはアルフォンソ13世の王としての最後の旅に選ばれた船で、帰国後はリベルタ Libertad(自由という意味)と改名

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※1936年のクーデター後、2隻の巡洋艦が共和派に忠誠を誓い、1隻が国粋派についた。共和派艦隊の主な任務は、ジブラルタル海峡を封鎖し、スペイン領モロッコからの海上通信と、スペイン首都圏にある国粋派軍の最強軍団“アフリカ軍”からの通信を避ける事だった。しかし、1936年9月に共和派艦隊はビスケー湾に入り、戦争中の最悪の戦略的判断で海峡の支配権を失った。巡洋艦ミゲル・デ・セルヴァンテス Miguel de Cervantesがビルバオで、北方海域での海軍の主導権を取り戻そうとする無駄な試みがここに示されている

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※1937年に共和派はバスクの製鉄所、造船所、武器工場、アストゥリアス Asturianの鉄鉱石・石炭鉱山等の北方領土を失い、海軍の活動は殆ど全て地中海に集中した。1938年3月には、カボ・デ・パロス Cabo de Palosで8インチの国粋派巡洋艦を撃沈し、共和派海軍にとって最も重要な海戦勝利を収めた。ここには、共和派艦隊の最高司令官であるUbieta司令官の紋章を掲げた巡洋艦リベルタが写っているが、船尾には25㎜ホチキスが2基、4インチのヴィッカーズ単装砲が3基のみ装備されている。セルヴァンテスは、1937年後半にイタリアの潜水艦の魚雷を受けた後、ドック入りしていたため、カボ・デ・パロスにはいなかった

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※その間、国粋派艦船は非常に活動的だった。ビスケー湾作戦と海峡の支配権を獲得する上で最も重要なカナリアスと一緒に、彼女はカボ・デ・パロスのルートに存在していた。その直前に共和派軍の爆撃機によって損傷を受けた。停泊後、ヴィッカーズの代わりにドイツ製の対空火器を4基、ドイツ製の20㎜機銃を4基搭載して改装された

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※1939年3月にカサド大佐 Colonel Casadoによるネグリン政権 Negrin's adminstrationに対する共和派のクーデターが起こり、戦争が終結した。共和派艦隊の最後の章は、利用可能な全ての共和派艦船がビゼルタに収容された事である。ここでは、戦争末期に40㎜ボフォース単装機関砲2基と20㎜エリコン単装機関砲4基を搭載したリベルタが示されている

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※終戦後、リベルタはガリシア Galiciaと改称された。主砲の配置が変更され、全ての砲架が連装になり、重対空火器は陸揚げされ、37㎜と20㎜機関砲に置き換えられた

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※カボ・サン・アントニオ Cabo San Antonio、カボ・サン・アグスティン Cabo San Agustin、カボ・サント・トメ Cabo Santo Tome。セヴィリアのYbarra & Co. Lineの3隻である。カボ・サン・アントニオはプロトタイプで、1本の煙突だった。この3隻は、イタリアのジェノバ港、スペインのバルセロナ港、バレンシア港から、ブラジルの南岸、プレート川沿いの都市(ブエノス・アイレス Buenos Airesとモンテヴィデオ Montevideo)へと向かうルートを想定して建造された

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※スペイン内戦の間、カボ・サン・アントニオはブエノス・アイレスに抑留され、終戦までそこに留まっていた。しかし、この2本煙突の船は、スペイン共和派に貢献する活発な船であり、1936年後半の重要な数ヶ月間にソヴィエトの武器・弾薬を初めて運び、同年11月~12月にかけてマドリード Madrid周辺の戦線を安定させるために大いに必要な武器を運んだ

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※3隻の船は悲しい結末を迎えた。カボ・サン・アントニオはスペイン内戦を生き延びたが、大西洋中部を航行中に火災が発生し、フランス軍艦の砲撃により沈没して廃船となった。カボ・サント・トメは、イギリスの偽物の定期船コルス Korsuの姿をしていたが、アルジェリア沿岸にて国粋派の砲艦ダト Datoとカナレハス Canalejasによる激しい砲撃戦の末、砲撃を受けて沈没。そして、カボ・サン・アグスティンは、終戦の何ヶ月も前(1937年)にソヴィエトに拿捕され、1941年に黒海にてドイツ軍に撃沈された

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※マヨルカ Mallorcaと少し全長の長いレイ・ハイメI世 Rey Jaime Iは、第一次大戦中にイスレーニャ・マリティマ Isleña Maritima社が発注した蒸気船。この2隻は、バルセロナからパルマ(もう一つはバレンシアからパルマ)という、イスレーニャ・マリティマ社の最も重要な航路の一つを担う高速汽船だった。戦時中の状態が描かれたマヨルカは、黒い船体に中立旗が描かれている。1930年代初め、イスレーニャ・マリティマ社はトランスメディテラネア船会社 Transmediterranea Shipping Companyに吸収された。内戦が始まると、2隻は国粋派の海域に入ったため、1936年10月に2隻はイタリアの造船所で特設巡洋艦に改装された。船尾に120mm砲、前方に76mm砲を装備した両艦は、地中海の共和派の港を封鎖する軍艦として使用されただけでなく、国粋派軍の高速輸送船としても使用された。1937年5月にマヨルカは、最近購入した元イタリアの駆逐艦セウタとメリリャのスペイン人乗組員を乗せて、ポルト・コンテに向けて出航した

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※また、マルケス・デ・コミーリャスと共に、降伏した共和派艦隊に配属される予定だった国粋派の乗組員を乗せてビゼルト Bizerteに向けて出撃し、内戦の最後の出撃となった。レイ・ハイメ1世もまた、特設巡洋艦や輸送艦として戦時中に活躍し、1937年2月に西地中海で共和派の外航船を追いかけて拿捕した封鎖部隊の一員だった

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※しかし内戦中、マヨルカもレイ・ハイメ1世も、ボイラーが油焚きではなく石炭焚きだった事がネックになっていた。戦後、両船はトランスメディテラネア社に返還され、第二次大戦中は、船体と甲板に大きな中立旗を掲げていましたが、1956年にキャリアの最後に両船はドック入りし、ボイラーは油焚きに変更された

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※この船は、第一次大戦後、カディスのエチェバリエタ・イ・ラリナガ造船所 shipyard Echevarrieta y Larrinagaが民間事業として建造した6隻の内の1隻。当初は一般貨物船として建造され、買い手がいない場合は造船所が運営していた。1920年にオフィール Ophirは海運会社ヴァスコ・バレンシアナ Vasco Valencianaに買収され、数年間、地中海からビスケー湾までの沿岸船として使用された。1923年にトラスメディタラニア海運会社が同船を購入し(親会社ペトロロス・ポルト・ピ社 Petroleos Porto Piのタンカーとして)、1927年にビルバオのエウスカルドゥナ社によってオイル・タンカーに改造された。同年、国家独占企業であるCAMPSAが設立され、トラスメディタラニア海運会社は石油関連の船舶や陸上設備の売却を余儀なくされた。内戦によりオフィールは共和派領海に入ったが、1937年2月にマラガの街と港が国粋派とイタリア軍に占領されたとき、タンカーはマラガにあった。同月には国粋派の軍務に就き、カナリア諸島とセウタ、メリリャ間の航路や港でのサーヴィスを開始した。1938年冬の国粋派軍の攻勢の後、オフィールはパルマ Palmaとヴィナロス Vinarozを結ぶ危険な航路で使用され、夜間に無灯火で航行した。最後にバルセロナ陥落後、オフィールとバダロナは、沈没した油槽船STイングリッシュ・タンカー ST English Tankerの燃料を回収する為に使用された。戦後にオフィールはバルセロナでサーヴィス・タンカーとして使用され、1965年に払い下げられ、2年後に解体された

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※スペインで建造された最初の近代的なディーゼル式商船は、1923年にビルバオのエウスカルドゥナ造船所で建造されたアランサ・メンディ Arantza Mendiである。Sota y Aznar Lineのために建造されたこの船は、スペイン内戦が始まるまでの12年間、不定期の貨物船として活躍し、ジェノバで内戦を知る。その港で彼女はイタリアのファシスト政府に接収され、ソシエタ・アノニマ・クーパーティヴ・ディ・ナベガツィオーネ・ガリバルディ Societa Anonima Cooperative di Navegazione Garibaldiに譲渡され、レッチェ Lecceと改名された

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※レッチェとして、彼女はリグリア海岸 ligurian coastとバレアレス諸島のパルマ港の間で活動した。終戦の数ヶ月前に船は所有者(ソータ氏 Mr. Sotaがバスク分離主義者であったため、彼の全財産が国粋派の新政府によって没収されたため、現在はアスナル Aznarと呼ばれている)に返還され、モンテ・ゴルベア Monte Gorbeaと改名された。モンテ・ゴルベアには悲しい結末が待っていた。第二次大戦中、船体に大きな中立旗が描かれていたにもかかわらず、1942年10月19日にマルティニツァ Martinicaから南西60マイルの地点にてドイツ海軍IXC型潜水艦U512(艦長W. シュルツ Wolfgang Schultze)による魚雷攻撃を受けて沈没し、乗組員乗客55名死亡という悲惨な結果なった

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※1928年にエウスカルドゥナがピニヨス・ライン Pinillos Lineの為に建造した2隻のやや小型の果物船で、カナリア諸島やスペイン半島と他の国々、特にイギリスを結ぶ収益性の高い果物輸送の為のもの。スペイン内戦が始まると、エブロ Ebroはフランスのセテ Seteで知らせを聞くが、船長と一部の乗組員はジェノバに行くことを決心する。ジェノバではファシストのイタリア政府が船を引き取り、アニェーネ Anieneという名前でガリバルディ社 Navegazione Garibaldiに譲渡された。アニェーネ(Amorisという名前も使っていた)として、彼女はリトアニアの港とスペイン、特にバルサの港 balearic harbourであるパルマ・デ・マリョルカ Palma de Mallorcaを結ぶ最も活発な船の一つであり、2年以上の間、一度も事件が起きなかった

※しかし、内戦末期、バレアレス諸島の南100マイルの地点で、アニェーネとその護衛艦であるコルヴェット・オルサ Orsaが、ツポレフ・カチウスカス Tupolev Katiuskas爆撃機(SB-2)3機の攻撃を受けた。直撃はしなかったが、いくつかの接近戦で船体が損傷し、甲板上で火災が発生した。両艦は何とかパルマに到着し、アニェーネはそこで修理された。1939年5月に彼女はピニヨス・ラインに戻された。内戦終了後、エブロはフルーツ貿易に戻ったが、第二次大戦終了後、国粋派体制の政治的・経済的な孤立を余儀なくされた戦後の厳しい時代に、主に南米への移民を乗せて数回の航海を行った。 双子のシル Silは全く異なる歴史を持っていた。共和派の領海にいたところを政府に拿捕された。この港では、1936年8月14日に陸海軍の国粋派軍将校300名以上が殺害され(痕跡なし)、そのうち40名は生きたまま発見された。 1936年後半にシルはメキシコに向かい、ライフルや弾薬などの重要な荷物を積んで戻ってきた。1937年に北部のサンタンデール Santander港で運航し、イギリスやスカンジナヴィア Scandinaviaへの航海も行った。1937年末にビスケー湾の共和派側の港が陥落したため、1938年10月に抑留されるまではイギリス側の港で運用されていた。1939年にはピニヨス・ラインに戻された。最終的にシルとエブロは払い下げられ、1965年にバレンシアにて解体された

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※1920年代後半に戦間期のスペインで最も重要な海運会社であるSota y Aznarは、現在の船隊を同クラスの内燃汽船8隻以上で近代化する事を決定した。これらはアヤラ・メンディ Ayala Mendi級で、すべてバスク地方のエウスカルドゥナ造船所で建造され、4000t近い船で、Burmeister & Wein製のディーゼル・エンジンを搭載し、12.5ktの速度を出すことが出来た

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※アヤラ・メンディは、オランダの港アントワープ Antwerp、ドイツのブレーメン Bremenやハンブルク Hamburg港へのルートに配置された。スペイン内戦が始まると、ブレーメンにいたこの船は国粋派軍側につくことになる。1936年12月からはHIMSA社(モロッコにあるドイツの会社で、ナチスの軍事的・非軍事的な援助を民族主義者や国粋派主義者に提供するためのファサードとなっていた)の船として航海し、1937年からはハンブルクのドイツの海運会社Slomanの旗の下で、スペイン内戦の非常に遅い時期まで活動していた

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※内戦終了後、Sota y AznarはAznarと改名されたが、これはSota氏がバスクの民族主義者であったために株式がすべて没収されたためであり、バスクの民族主義政党であるPNVは敗北した共和派党に味方した(PNVはリベラルな政党であり、社会主義・アナーキスト・マルクス主義・スターリン主義の政党がゆるやかに混ざり合ったフレンテ・ポピュラー Frente Popularの本流とはかけ離れていた為、非常に奇妙な同盟関係であった)。会社名の変更に伴い、Aznarの全船隊は改名され、アヤラ・メンディは修理の後、1939年にモンテ・アヤラ Monte Ayalaと改名された。第二次大戦中、殆どのスペイン船の船体には巨大な中立旗が描かれており、この姿のまま、モンテ・アヤラは1941年にヴィーゴ Vigoで座礁してしまった。モンテ・アヤラは救われ、修理された。第二次大戦中、外国の船会社が不足していた為、このクラスの船のうち6隻が大西洋横断用の船として使用された。終戦後、モンテ・アヤラは何千名ものスペイン人が南米(主にアルゼンチンとヴェネズエラ)に向かう移民船として活躍した。活躍した後、モンテ・アヤラは1960年代後半に払い下げられた

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※Barcaza de desembarco K12。イギリス製の蒸気式揚陸艇で、イギリス国旗の下でガリポリに参加した経験があり、スペイン船としては1925年のアルフセマス上陸作戦 Alhucemas landingsにも参加している。この艇の2隻(K12とK26)は、1936年8月16日の朝、プンタ・デ・アメル Punta de Amerで使用された。西地中海におけるバレアレス諸島の戦略的位置は否定出来ない。イベリア半島とフランス南部の港との間の通信や、黒海からのロシアの補給を遮断することが出来、また、スペインのレヴァント海岸 Levantine coastに近い為、3つの主要な島のいずれかが国粋派軍の理想的な基地となり、空軍は海の大部分をパトロールしたり、共和派の主要都市であるバルセロナやバレンシアに致命的な爆撃を行うことができた。 保守派のクーデターが失敗した後、カタルーニャの実権を握っていたのは、無政府主義者の政党(表向きはカタルーニャ分離独立派の共和国政府)、特にFAIだった。8月、カタルーニャ反ファシスト民兵中央委員会は、マドリードの共和派政府から完全に独立した、カタルーニャ/アナキストだけの作戦として、バレアレス諸島(群島のうち、共和派の手に渡ったのは、非常に重要な海軍基地と壮大なマホン Mahon湾を持つメノルカ島だけだった)の占領を計画した。 8,000名から1万名の大規模な軍隊が編成され、12門の大砲と、12インチ砲搭載の戦艦ハイメ1世 Jaime I、6インチ砲搭載の巡洋艦リベルタ、4.7インチ砲搭載の駆逐艦2隻、B級潜水艦3隻、砲艦1隻、艦隊曳船1隻、港内曳船1隻の支援を受けた。輸送船シウダッド・デ・バルセロナ Ciudad de Barcelona、シウダッド・デ・カディス Ciudad de Cádiz、シウダッド・デ・マホン Ciudad de Mahón、シウダッド・デ・タラゴナ Ciudad de Tarragona、イスラ・デ・テネリフェ Isla de Tenerife、ウンベ・メンディ Unbe Mendi、そして双子の近代的な内燃汽船、マル・ネグロとマル・カンタブリコ Mar Negro y Mar Cantábricoが、最初はメノルカ島とイベサ Ibeza島、後にはマヨルカ島への侵攻トロポス troposの航海に使用された。定期船マルケス・デ・コミーリャスは病院船として使用された。 プンタ・デ・アメルでは2隻のK型揚陸艇が使用されたが、主な上陸地点は1936年8月16日と17日にポルト・クリスト Porto Cristoで行われた。上陸は非常に成功した為、共和派はその成功を利用することが出来ず、無駄な攻撃や革命的な改革に貴重な時間を費やしてしまった。この“窓”のような時間は、わずか3,000名の守備隊(2,000名のファランギストの民兵、黒シャツのイタリア人志願兵、イタリア正規軍の少数の幹部、スペイン軍の守備隊、ガーディア・シヴィル)がマナコール Manacorの町を中心とした防衛線を組織し、まず共和派軍の進撃を阻止し、後に海岸堡を孤立させる機会を与えた。イタリアの援助は非常に重要で、CR32戦闘機3機とSM.81爆撃機3機による航空支援は、国粋派軍の反撃には欠かせないものだった。 共和派の調整能力のなさは有名で、遠征隊長のバヨ Bayo隊長と各アナーキスト委員会との間で命令が二転三転していた。その為、目的がはっきりせず、作戦全体が大失敗に終わってしまった。4,000名近い死傷者を出した後、9月5日に共和派・カタルーニャ軍は撤退を余儀なくされ、その2日後にはイビサ Ibizaの軍も撤退した。これにより、マヨルカ島は反乱軍(後の国粋派)の手に渡り、マホンの海軍基地は事実上無力化された。イタリア軍はマヨルカ島の基地をバレアレス諸島警備隊に組み込んで、共和派軍の後方部隊を爆撃したり、バレアレス諸島周辺のシーレーンを支配したりして、戦争の残りの期間を過ごした

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※グアルダコスタス・ザウエン Guardacostas Xauen。同じくイギリス出身で第一次大戦のヴェテラン。1922年にマージー級の2隻の3インチ砲搭載の武装トロール船が購入され、ザウエンとアルキラ Arcilaはアルフセマス上陸作戦に参加した。アブデル・クリム Abdel Krimの敗北後、1920年代から30年代にかけて、2隻の船はスペイン領モロッコの北部を守っていた。内戦が始まると、ザウエンは共和派に、アルキラは国粋派に忠誠を誓った。前者は1936年にマヨルカ島で使用され、海岸近くで国粋派の陣地を砲撃していた。その後、翌年2月にマラガが陥落するまでマラガ港を警備していたが、共和派によって沈められ、5月に共和派によって再浮上させられ、修理され、76㎜×1、47㎜×1、機銃で武装され、1938年半ばまでジブラルタル海峡周辺の沿岸警備に使われ、その後、戦争中はカナリア諸島で使用された。1971年にようやく払い下げられた

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※Remolcador de Altura Ciclope。第一次大戦中にイギリスで余剰となったこの艦隊曳船は、1921年にスペイン海軍が購入。1924年にトレスフォルカス岬で座礁した戦艦エスパーニャ Españaを救出するために、マルセイユから浮きクレーンのアトラス Atlasを曳航するのに参加。Ciclopeはアルフセマスの上陸地点でK型揚陸艇を曳航したほか、カディスからカラ・ケマダ Cala Quemadaまで、塩水を飲料用の真水に変えるために必要なボイラーを曳航。カルタヘナを母港としていたため、この艦は共和派に忠誠を誓い、艦長のCdr.Buizaはのちに6インチ砲巡洋艦リベルタの艦長に任命され、後には共和派艦隊のチーフとなった。戦時中は共和派の主要基地であるカルタヘナに駐留していたが、1938年11月に国粋派軍の爆撃機によって爆撃され、沈没した。戦後、引き揚げられ修理された。火災演習の後、ポンテヴェドラ Pontevedra沖の強風で座礁

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※10,000t、8インチ砲のワシントン条約型重巡洋艦で、1928年に発注された。設計はフィリップ・ワット卿 Sir Phillip Wattsが行い、フェロルのSECN社で建造された。1931年に進水し、1934年に初航海を果たした。しかし、1936年7月の内戦開始時にはまだ就役しておらず、武装も測距システムも不完全で、さらに重要な事に、訓練された乗組員もいなかった。カナリアス Canariasは昼夜を問わず働き、1936年9月末に初出撃する事ができたが、不完全な武装(副砲は旧戦艦エスパーニャの4インチ副砲)、間に合わせの測距装置(フェロル沿岸の砲台のテレメーター telemetersと私的に購入したジャイロ台 gyroscopic platformで製作)であった。共和派艦隊(自国民は赤軍艦隊と呼んだ)がビスケー湾に向かい、ジブラルタル海峡に駆逐艦2隻だけを残して、モレノ提督 Admiral Morenoの旗を掲げたカナリアスと6インチ砲軽巡洋艦セルヴェラが南方海域に向けてフェロールから去ったことを知っていたからである

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※9月29日未明、ジブラルタル海峡の大西洋側にあるカボ・エスパルテル Cabo Espartelで、カナリアスは共和派駆逐艦アルミランテ・フェランディス Almirante Ferrándizを発見、砲撃を開始し、第3弾で19,000mの距離で命中させた。さらに距離を詰めたカナリアスは、5発を命中させ、不運にも駆逐艦は爆沈してしまった。セルヴェラは駆逐艦グラヴィーナを砲撃したが、共和派軍の船はカサブランカに到着して無事であった

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※ジブラルタル海峡の主人である反乱軍/民族主義者/反共産主義者の艦隊はスペイン領モロッコに残っていたすべての反乱軍、よく訓練されたアフリカ軍、数週間のうちにスペイン首都マドリードのアドポータス ad portasに入ることが出来る様になり、その船舶を保護した。10月16日、カナリアスはカディスに到着し、その工廠に120㎜両用砲が4門が搭載された。10月下旬にはカタルーニャ海岸に上陸し、30日にはロサス Rosasを砲撃し、巡視船マリネロ・カンテ Marinero Cante(フランス製の古い船で、不格好な外観だがホチキス57㎜砲を装備)を撃沈した

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※11月8日にはアルメリア Almeriaを砲撃し、CAMPSAの石油施設を焼き払い、2日後にはバルセロナを夜間攻撃、翌日には蒸気船マヌエル Manuelを砲撃して沈め、12日にはスペインの小型蒸気船シウダデラ Ciudadelaを拿捕、ほぼ1週間後の17日にはパラモス Palamosを砲撃

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※11月末にはソヴィエト船ハリコフ Kharkovが拿捕され、その2週間後には別のソヴィエト船、近代的内燃汽船コムソモル Komsomolが迎撃され、砲撃、撃沈された(別のヴァージョンでは迎撃され、ソヴィエトの乗組員によって沈没処分されたとある)。1937年1月初旬、カナリア諸島はポート・ボウ Port Bouを砲撃し、CAMPSAの近代的なタンカー・カンプザノを拿捕。1月下旬、カナリアスは姉妹艦のバレアレスとともにマラガを砲撃し、スペイン共和派の地中海最西端の港を包囲し征服する陸上攻撃を支援した。モロッコのイスラム教徒がメッカに巡礼する内燃汽船ドミネの護衛を務めたのち、バレアレスは南方海域に留まり、カナリアスはビスケー湾に向かうもカディスで第二砲台の残りの120mm砲4門を装備したため、短い寄り道をしている。1937年3月5日、ビルバオ付近でカナリアスはバスクの武装トロール船ギプスコア Guipuzcoaを砲撃して沈め、ナヴァラ Navarraをほぼ無力化し、ドノスティア Donostiaを砲撃して攻撃、共和派の蒸気船ガルダマス Galdamesを拿捕した。さらに重要なことは、8日、カナリアスがカンタブリア海 Cantabrian Seaにて飛行機、大砲、機関銃、ライフル弾1,400万発を満載した近代的な内燃汽船マル・カンタブリコ Mar Cantabricoを拿捕したことであった

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※共和派北海岸がほぼ完全に陥落したため、カナリアスとセルヴェラは、唯一の巡洋艦バレアレスの必要な援軍として、地中海に戻った。1937年9月第1週、共和派艦隊の大部分(巡洋艦リベルタ、メンデス・ヌニェス Méndez Núñez、駆逐艦6隻)は、3隻の蒸気船の輸送船団を守るためにカルタヘナを出港。オラン Oranからヴァレンシアへ向かうサトルステギ Satrustegui、アルデコア Aldecoa、マルブランコ Mar Blancoの3隻の船団を守るためにカルタヘナを出港した

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※パルマから出航したバレアレスは輸送船団を迎え撃ち、シェルシェル岬 Cape Cherchel近海にて共和派巡洋艦に発砲し、6インチ砲のリベルタに3度被弾したが、優れた速度により、バレアレスはフランス領アルジェリアへ完全転進し、オラン沖ではアルデコアが座礁してしまうという強行手段にでた。共和派の戦術的勝利であったが、国粋派の巡洋艦は、(ベルチット共和国の攻勢に Belchite republican offensive)必要な“物資”の輸送船団の援軍を避けるという目的を達成した

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※1937年9月23日、カナリアスは共和派軍の蒸気船JJシスター JJ Sisterとレイ・ハイメI Rey Jaime Iを拿捕。共和派の護衛艦3隻(アンテケラ Antequera、グラヴィーナ、サンチェス・バルカイステギ Sanchez Barcaiztegui)が逃走した後、これは恐らく共和派艦隊のどん底であり、ブイザ艦長 Captain Buizaを赤軍艦隊の長から解任するきっかけとなった出来事であった。1938年2月22日、18機のツポレフSB爆撃機が国粋派巡洋艦部隊に攻撃を仕掛けたが、セルヴェラだけが被弾し、重要な数の死傷者が出た。1938年3月5日、イタリアからの重要な戦争物資を積んだ蒸気船SS Aiskori Mendiとウンベ・メンディの護衛中、巡洋艦部門(Almirante Viernaの旗を掲げるバレアレス、カナリアスとセルヴェラ)は、0200に共和派艦隊(リベルタ、メンデス・ヌニェスと5隻の駆逐艦)によって(意図せず)交戦した。不幸にも、国粋派軍の艦船から照明弾が発射され、数秒のうちに、国粋派軍の艦船のおもな戦術的優位性である大きくて長い射程の大砲が消え、共和派の駆逐艦が至近距離にいるという状況になる。駆逐艦は迅速に魚雷を発射し、12本が国粋派の艦船に向かって発射され、少なくとも2本がバレアレスに命中。艦隊の残りの巡洋艦は攻勢に転じ、共和派艦隊はカルタヘナに向かった。05:00、バレアレスは大きな犠牲を出しながら沈没。艦隊の最も新しい船を失ったにもかかわらず、国粋派軍は主導権を握り続け、2ヶ月後、カナリアスはソ連の内燃汽船ステパノフ Stepanovを拿捕することが出来た。1938年8月、カナリアスは他の船とともに共和派駆逐艦ホセ・ディアス Jose Diazをジブラルタルに抑留することを余儀なくした。戦争末期には、国粋派軍の艦隊は議論の余地もなく、ほぼ完全な制海権を獲得していた。1939年4月1日、カナリアスは勝利者として共和派海軍の主要拠点であるカルタヘナに入港した

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