スペイン内戦の艦船
Spanish Civil War Vessels


※1936年から1937年にかけての晩秋から冬にかけてのマドリード Madrid防衛の成功には、ソヴィエトの援助が極めて重要であった。近代的で比較的大きな内燃汽船コムソモール Komsomolには、共産主義青年から選ばれた幹部が乗船し、1936年後半に50両のT-26戦車、ポリカルポフ戦闘機、何tもの歩兵兵器や弾薬が降ろされて非常に重要であった。しかし、1937年初頭、重巡洋艦カナリアス Canariasによって撃沈されたのち(ただし、これには2つの矛盾する説がある。カナリアスは8門の砲でコムソモルを砲撃し撃沈した、もう1つは乗組員が船を切り離し、積荷の捕獲と、ソヴィエトとスペイン共和国の不干渉条約違反が明らかになるのを避けたというもの)ほとんどの荷物はロシアの代わりにスペイン船で、あるいはイギリスの船で、あるいはフランスの港に向け輸送された。1938年3月にジブラルタル海峡で補助巡洋艦プチョル Pucholに拿捕された蒸気船ポスティシェフ Postyshevもその1隻である。拿捕された船はスペイン軍に使用され、別の名前で、この戦争の最終章の1つの役者となった

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※18世紀に確立された水路事業にもかかわらず、スペイン艦隊はスペイン内戦初期に2隻の臨時船ともう1隻の建造中の船を保有していたに過ぎない。現役のアルタブロ Artabroとトフィーニョ Tofiñoは共和派に忠誠を誓い、カディス Cadizで建造中のマラスピーナ Malaspinaは1936年7月に国粋派に接収された。地図や海図は殆ど国粋派軍の手に渡っていた為、トフィーニョとアルタブロの両船は共和派によって測量船として使用された。トフィーニョは、1938年12月から1939年1月にバルセロナ Barcelonaで爆撃を受けるまで、常に地中海で使用された。その後、フランス軍によって沈没が発見され、第二次大戦終了後、調査船として再就役した。1970年代半ばにその役目を終えた

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※マラスピーナは調査船としてではなく、3インチ砲と旧Nordenfeldt製57㎜QF砲を搭載した武装船("bque planero armado")として仕上げられた。彼女は戦争中ずっとジブラルタル海峡地帯に留まり、ラトヴィアの蒸気船エベラーズ Everardsを捕獲することが出来た。終戦後は調査船として改装され、こちらも1970年代半ばに払い下げられた

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※もう一隻は兵員輸送船タリファ Tarifaである。この小さな蒸気船は1912年にハーレプール Harlepoolでニュー・ロンドナー New Londonerとして建造され、いくつかの名前と所有者を経てヤヌ Januと名付けられた。ベルギーのSOCDECO社(ただしパナマ船籍)により、共和派に武器を違法に取引する(密輸)為に使われ、最初のサンタンデル Santanderへの航海は成功しましたが、2度目の航海中にジブラルタル海峡で武装トロール船ウエルヴァ Huelvaに拿捕される。ウエルヴァはドイツ製のブルチャー級 Blucher classトロール船で、第一次大戦中は武装して北海で使用されていた。1920年代にカディスのスペイン人オーナーに買収され、ヴィルヘン・デ・ラ・シンタ Virgen de la Cintaと改名され、1936年7月まで漁船として使用された。1936年7月に3インチ砲と機関銃を装備し、ウエルヴァと改名。カディスを拠点とし、戦時中も海峡に留まった。鹵獲されたヤヌはGerencia de Buques Incautadosの下でカスティーリョ・アレヴァロ Castillo Arevaloと改名され、国粋派軍の地中海沿岸の港を結ぶ沿岸輸送船として使用された。戦後まもなくは、ビスケー湾 Bay of Biscayと地中海のスペイン沿岸で沈没した船を引き上げるダイヴァーの基地として使われた。その後、カスティージョ・アレヴァロは輸送船として海軍に接収され、タリファ Tarifaと改名された。第二次大戦中は大隊規模の部隊輸送船に改造され、1948年に完全に修理された。それにも関らず、彼女は常に機械の問題で遅い船だったので、アルマダ Armadaでの彼女の人生は比較的短く、1960年代初頭に払い下げられた

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※砲艦ジュピター Jupiterは、内戦が始まった時、エル・フェロール El Ferrolで建造中だった4隻の砲艦兼機雷掃海艇クラスの先頭を切っていた。国粋派側には駆逐艦が不足しており、このクラスの建造が加速された。3隻(ジュピター、ヴルカーノ Vulcano、マルテ Marte)が戦争に参加した。1950年代には、2基(ジュピター、ヴルカーノ)がアメリカ製装備で近代化された

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※スペイン内戦における外国の介入で最も複雑なものの一つが、イタリアのレジア・マリーナ Regia Marinaの参加であろう。イタリアのファシスト独裁者ベニト・ムッソリーニ B. Mussoliniは、いくつかのスペイン君主主義グループを支援し(資金を提供し、 イタリアで軍事訓練を行った)、モロッコでの最初のクーデターからわずか 5 日後に、フランコ将軍 Gen. Francoの軍隊に、アフリカとアンダルシア Andalusiaを結ぶ橋渡しとして(ドイツの Ju52と共に)非常に重要である戦闘機という形でかなりの援助を与えた。しかし、スペインへの海軍介入は、1936年11月17日にローマで行われたピノ提督 Admirals Pinoとジャンベルナルディーノ提督 Gianbernardino(イタリア軍)、ランゲ大佐 Captains Langeとヘイエ大佐 Heye(ドイツ軍)の会談で決定された。ガタ岬 Cape Gata(アルメリア Almeria近郊)で、北側がドイツ、南側がイタリアの哨戒区域が決定された。ドイツ軍の潜水艦は、緊急時にはラ・マッダレーナ La Maddalena港を避難所として使用することが出来た。主な目標は戦艦ハイメ1世 Jaime Iと共和派巡洋艦だったが、潜水艦はスペイン沿岸から3マイル以内にあるスペイン(またはロシア)船舶、軍事、民間の船舶、共和派港に向かう船舶を有効な目標とすることを許可された。スペインの“白”(つまり反乱軍、民族主義者、後の国粋主義者)海軍当局へのいかなる情報も避けなければならず、沈没成功後に調査が行われた場合、ドイツとイタリアの両当局はいかなる非難も否定し、完全に驚きを示すという皮肉な態度を示さなければならなかった。この会合には、スペイン人は一名も出席していない。ドイツとイタリアの合意の直接的な結果として、1936年11月22日、カルタヘナ Cartagena沖で共和派軍の6インチ砲巡洋艦セルヴァンテス Cervantesが潜水艦エヴァンジェリスタ・トリチェリ Evangelista Torricelliによって魚雷攻撃された。このスペインの巡洋艦は1938年3月まで就役しないままであった。その3週間後、ドイツの対抗策であるウルスラ作戦 Operation Ursulaは、U34(12) がマラガ Malaga沖で潜水艦C-3を撃沈し、またもや成功を収めた

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※1936年12月30日、カディスの巡洋艦カナリアスにおいて、セルベラ提督 Admirals Cerveraとモレノ提督 Moreno(スペイン軍)、イアチノ提督 Admirals Iachino(イタリア軍)とフォンフィシェル提督 von Fischel(ドイツ軍)が会談し、ドイツとイタリアの海軍の援助は正式なものになった。主に共和派船の動きと地中海の海上交通について情報を提供した。1月16日から17日の夜、トリチェリは夜間攻撃を行い、15分間にバルセロナ港を砲撃した。2週間後の1937年1月30日、共和派軍の蒸気船デルフィン Delfínが、コンドル軍団 Legion Condorの水上機によってトロックス沖に発見された。すぐにアタライオン Atalayón基地のAS88 Sqnの水上機3機が派遣され、魚雷攻撃は失敗したが、デルフィンの船長は意図的に海岸に着岸させ、人命の損失はなかった。翌日の夜、イタリアの潜水艦チロ・メノッティ Ciro Menottiが、座礁したデルフィンに魚雷を2本発射し、撃沈を主張した

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※汽船が“浮いた”ままだったため、He59水上機による更なる空襲を受けた。250㎏爆弾が船の中央部を破壊し、激しい油漏れが発生した為、その海岸は現在ではカラセイト Calaceite(油の海岸)と呼ばれている

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※ほぼ1週間後の2月8日、タラゴニア Tarragonian沿岸で蒸気船ナヴァラ Navarraがイタリアの潜水艦ガリレオ・フェラリス Galileo Ferrarisの奇襲を受け、魚雷攻撃を受けて撃沈された

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※翌日の夜、潜水艦エットーレ・フィエラモスカ Ettore Fieramoscaがバルセロナ港を砲撃し、15分間で120㎜砲を35回発射、そのうちの1発が蒸気油槽船ゾロザ Zorrozaを損傷させる。この最初の潜水艦作戦は、不干渉委員会 Non-Intervention Committeeの厳しい抗議を受け、中止された。しかし、夏にはソヴィエトからの大規模な援軍が到着し、共和派軍は、包囲されたバスク Basque、カンタブリア Cantabrian、アストゥリアス領 Asturian territories. Soから国粋派軍の注意を逸らす為に、何度も流血の攻勢を開始した。そこで、1937年8月の第1週、フランコ将軍は実弟のニコラス Nicolásをローマに送り、イタリア領で、ロシアの継続的な物資の流入を阻止するための緊急支援を要求したのである

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※殆ど即座に、第二の作戦が開始された。1937年8月11日、チュニジアのラス・エル・ムスタファ Ras el Mustafa沖で、イタリアの駆逐艦サエッタ Saettaがスペインの大型油槽船カンペアドール Campeadorを魚雷で沈めるという海賊じみた攻撃を行った。翌日のカルタヘナ沖では、潜水艦ジャレア Jaleaが共和派駆逐艦チュルーカ Churrucaに魚雷を打ち込み、ボイラー室を破壊している。この時、イタリアの潜水艦は黒く塗られ、帆や船体の識別は抑えられ、スペイン人将校をファジェ faje指揮官としていた

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※8月15日、トルコ海峡の入り口まで来たところで、潜水艦フェラリス Ferraris(“軍団 Legionary”船として、黒く塗られ、帆に偽の数字記号を付け、スペイン人の偽艦長と、スペインの制服を着たイタリア人の本物の乗組員と、スペイン指揮・旗で偽装していたがイタリアが所有していた)が、定期船シウダー・デ・カディス Ciudad de Cadizを魚雷で沈め、その3日後には蒸気船アームル Armuruを同じようにして沈めてしまったのだ。両船は失われた

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※8月31日、ソヴィエトの近代的な内燃汽船Timiryazevは、Tigzirt沖でイタリアの駆逐艦Turbineによって魚雷、砲撃、沈没させられた

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※同じ日、同じ様な形状の為か、イタリアの潜水艦ソマーギビレ・イリデ Sommergibile Irideがイギリスの駆逐艦ハヴォック Havockに攻撃をし失敗した(NICサインで明確に識別されていたにもかかわらず)。駆逐艦はASDICを使用したにもかかわらず、爆雷がファシスト潜水艦を傷つけない為、イタリアのソマーギビレ・イリデを発見し破壊する事が出来なかった。これも“軍団”潜水艦だった。イタリア人将校と水兵、偽のスペイン人指揮官、スペイン海軍の管理下にあったが、まだレジア・マリーナが所有していた。イタリア側にとって不幸な事に、次の時間にイリデが現れ、イギリス人達によってイタリア艦であることがはっきりと確認された

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※翌日、1937年9月1日。コロンブレテス諸島 Columbretes Islands沖で、油槽船ウッドフォード Woodford(かなり大きな蒸気船で、以前はギリシャが所有していたが、当時はイギリス船籍で、スペイン政府会社が所有していた)が潜水艦ディアスプロ Diasproによって魚雷攻撃を受け、沈没した。この潜水艦は軍団のものではなかったので、偽のスペイン人指揮官はおらず、イタリア海軍の直接指揮下にあった

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※1937年9月3日、潜水艦セッテンブリーニ Settembriniがソヴィエトの貨物船ブラゴエフ Blagoevに魚雷攻撃を仕掛けた。魚雷が失敗すると、潜水艦は浮上し、汽船が放棄されるまで砲撃した。その後、セッテンブリーニは2本の魚雷を発射し、ソヴィエト船を撃沈した。この公然かつ海賊的な攻撃は、最も重要な緊急協定を作った。ニヨン Nyonでの迅速な会議で、ヨーロッパの主要な海洋国家は、地中海のどの地域でも“幽霊”/“海賊”潜水艦を攻撃し、撃沈する事を合意したのである。1937年9月14日に終了したニヨン会議は、第二次イタリア潜水艦作戦を決定的に停止させた。ソヴィエトの物資はフランスの港に到着する事を余儀なくされ、共和派軍への供給がより困難になった。ブルネテ Bruneteとベルシテ Belchiteでの共和派軍の攻撃は、戦術的には殆ど成功せず、戦略的には敗北となった

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スペイン艦隊に売却された潜水艦アルキメデ Archimedeとトリチェリ Torricelli(モラ Molaとサンジュルホ Sanjurjo)は、スペイン海軍の所有で、スペイン人乗組員(ただしイタリア人専門下士官もいる)が乗り、スペインの旗と指揮下に置かれていた。戦争中に売却されたことは不介入協定に明らかに違反しているが、いかなる海軍法にも違反していない。“レギオナル”潜水艦。スペインの旗と指揮の下にある。理論的には、イタリア人の乗組員はすべてスペイン外人部隊のメンバーであり、それゆえ "legionary"と呼ばれ、スペイン人の偽指揮官が乗っていた。フェラーリ Ferraris、ガリレオ Galileo、イリデ Iride、オニス Onice(前者はアルキメデ級 Archimede class、後者はペルラ級 Perla class)、モラII Mola II、サンジュルホII Sanjurjo II、ゴンザレス・ロペス Gonzalez Lopez、アギラール・タブラダ Aguilar Tabladaという仮の名前である。これは合法と非合法の狭間であった。少なくとも25隻の他の潜水艦が、イタリアの指揮の下、イタリアの士官と下士官兵、そしてイタリア国旗の下で行動していた。第一次作戦では36回、第二次作戦では59回の任務を遂行した。その全てが海軍法に違反し、海賊的な性質を持ち、いくつかの本当の“詭弁”...しかし、攻撃された船の政府に戦争をする意志があった場合のみ
※1937年6月のビルバオ Bilbao陥落で、共和派バスク basque商船隊の大部分はホームレスとなり、共和派政府はロンドンに海運会社Mid Atlantic Shipping Co. この会社は、国営石油会社CAMPSAの子会社であるCAMPSA Gentibusが所有するものであった。まもなく、ミッドアトランティック社は15万t以上の総船籍を所有するようになった。最初の買収船(ミッド・アトランティック・シッピングの子会社コンパニア・プリメーラ・デ・ナヴェガシオン社 Compañia Primera de Navegacion)の1隻、蒸気船ウッドフォード Woodfordは1937年9月にカステロン Castellon沖でイタリアの潜水艦によって魚雷攻撃され沈没した。直接買収した油槽船はオイルフィールド Oilfield で、ニューカッスル NewcastleのHunting and Sonが所有していたかなり大きなトランク・ハル big trunk hull船であった。このタンカーはSTイングリッシュ・マリナーと改名され、共和派領を二分した国粋主義者の攻勢によりアリカンテ Alicanteで爆撃を受け沈没するまで活躍した。戦後、イングリッシュ・マリネル English Marinerは再浮上、修理され、カスティーリョ・アルメナーラ Castillo Almenaraと改名され、ジェレンシア・デ・ブケス・インカウタドス Gerencia de Buques Incautadosに配属された。1947年にCAMPSAに返却され、1967年に解体されるまで油槽船として使用された。油槽船Arlonは Arlon Shipping Co. の所有であったが、これはロンドンのJames German and Co., Ltd. の別名であり、Oregon Steamship Co., Ltd. という大きな会社の一部であった。多くの子会社や偽会社を利用することで、危険ではあるが非常に収益性の高いスペイン共和派との貿易(武器を積んだ場合は違法となることもある)のイギリスによる管理を回避することができた。また、1938年半ばの空襲時にヴァレンシア Valenciaで撃沈されたが、これはおそらくバレアレス諸島 Balearic Islandsからのイタリアのイタリア王国空軍の遠征軍団 Aviazione LegionariaのサヴォイアマルケッティSM.81爆撃機によるものである。そののち、再浮上したが、経済的な修理は不可能で、内戦終結後、ヴァレンシア沖の深海で沈没した

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※シリーズの最初の船は、1903年にMay Queenとして進水し、のちにCompañia Tabacaleraに買収され、1921年にはPesquerias Coruñesasに買収され、1930年代半ばにサルヴェージ曳船として改装され、5つの強力なポンプと多くのホースを備え、アルゴス Argosと改名し、Corcubionを母港にしてCosta da Morteという死の海岸の危険な海で、Finisterre岬近くのGalician漁船団の救助に使用できるような船だった。1936年、アルゴスは国粋派に拿捕され、フェロール Ferrolを拠点に国粋派の巡視船として大砲を装備していた。この役割で、共和派船アルフォンソ・センラ Alfonso Senra、のちにスウェーデンの蒸気船ロナ Ronaを拿捕した。アルゴスはまた、拿捕されたカンタブリコ Mar Cantabricoの消火にもあたった。1937年10月にヒホン Gijonが陥落すると、アルゴスは元のサルヴェージ曳船の役割に戻り、沈没した駆逐艦シスカル Císcarと油槽船エルカーノ Elcanoの救助に活躍した。内戦終結後、アルゴスは地中海のスペイン港にあった多くの難破船を引き揚げるための貴重な船であったため、スペイン海軍に買い取られR 2と改名されたが、非公式には元の名前で知られていた。R 2/アルゴスは長い間使用されたのち、1970年代中頃に払い下げられた

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※商船フォインズ Foynesは、1937年のイタリア空襲の際にヴァレンシアで沈没した無名の小さな貨物船。HMS Privetとして第一次大戦中にUボートを3隻(U85、UC29(12)、U34)撃沈したQシップだった。1916年にGoole ShipbuildersにてIsland Queenとして建造され、海軍によって取得され、Q 19と改名されたのち、Privetと名乗るようになった。しかし、アイランド・クイーン Island Queenやスウェッシャー Swesherの旧名であるアルカラ Alcalaとしても知られていた。終戦後、ロンドン・アンド・チャンネル・アイランド・スティームシップ社 London & Channel Island Steamship Co. に売却された。そののち、アイリッシュ(アイルランド)・リムリック蒸気船会社 Irish (Eire) Limerick Steamship Co. にふたたび売却され、ロンドン、リヴァプール Liverpool、カーディフ Cardiff、リムリック Limerick、ゴールウェイ Galwayを結ぶ航路用にフォインズと改名された。スペイン内戦で、船主は有益な共和派貿易に携わったが、イギリスの赤旗の下にあった。1937年6月27日、最初の夜明けの攻撃で、マジョルカ島 Majorcaからの5機のSM.81がヴァレンシア港 harbour of Valenciaを爆撃し、フォインズが係留中に沈没した。内戦終結後、フォインズは引き揚げられ接収され、カスティーリャ・リアザ Castillo Riazaと改名され、最初はスペイン政府機関Gerencia de Buques Incautadosの下で、のちに同じく国有企業であるEmpresa Nacional Elcanoによって、1966年に払い下げられるまで航海された

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※ローラン・スキアフィーノは、1908年にJ Readhead & SonsによってSS Sargassoとして建造された。当時としてはかなり大きな船で、大戦を生き残り、1920年にリヴァプールのCharente Steamships Co. に売却されScientistと改名された。5年後、アルジェ Algiersのフランス企業Societe Algerienne de Navegation pour l'Afrique du Nord Charles Schiaffino & Cie. に売却され、ローラン・スキアフィーノと改名さたが、スペイン内戦中、SS Laurent SchiaffinoはフランスのMidi~スペインのLevant間の少なくとも2回の航海に従事した。そののち、1937年に共和派スペインとの貿易に深く関わっていたイギリスの海運会社、アフリカン&コンチネンタル African & Continentalに売却され、アフリカン・トレーダー African Traderと改名。新しい所有者のもとで、イギリスの港とジブラルタル、地中海のスペイン港を結ぶ危険な航路に従事しながらも、幸運にも戦争を生き残ることができた。1939年にイタリアのヴェニス VeniceからE. サバドス E. Szabadosに売却され、パオロ Paoloと改名、1943年に最終的に沈没した。下のローラン・スキアフィーノは、バルセロナへの最初の出航の前にフランス領海で運航中の状態を描かれている

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※スペイン内戦中に沈んだ唯一の外国船は、フランスのシャスール Chasseur C 91(元SC-389)である。この小さな軍艦は、第一次大戦中にアメリカでSC-1級駆潜艇(木造船体)として建造され、1918年にフランス海軍 Marine Nationaleに売却されたが、到着が遅すぎたために戦場での活躍は見られなかった。1937年10月、ドイツ軍の水上機He59の爆撃を受け、ミノルカ島 Minorcaのフォルネルズ Fornellsで沈没

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※機雷戦はスペイン内戦の初期か国粋派海軍にとって重要なものだった。大西洋/ビスケー湾と地中海の両方に沿岸を持ち、武装トロール船を含む非常に限られた数の艦船では、効果的な封鎖はほとんど不可能だった。そこで、国粋派主義の艦隊は機雷を使用して、共和派側の港への出入りを制限しようとした。いくつかの外国船が機雷で撃沈されたが、ここではそのうちの二つを紹介する。SS Loukiaはギリシャの蒸気推進油槽船で、1910年にイギリスのArmstrong Withworthによって、ブリティッシュ・ビルマ石油会社 British Burmah Petroleum Companyのために建造された。第一次大戦を生き残り、1929年にPireusのJG Mavrisに売却され、ルーキア Loukiaと改名された。1936年、SS LoukiaはMavris & Zadeh社の唯一の船舶となった。スペイン共和派向けの収益性の高い石油輸送に携わったルーキアは、コンスタンツァ Constanzaからルーマニアの石油を輸送中、バルセロナ沖で機雷に触雷し、1937年3月に沈没

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※サン・プロスペール Saint Prosperの沈没は、スペイン内戦の中で最もミステリアスな事件の一つである。セント・プロスパー St. Prosperは、第一次大戦後、ソシエテ・ナヴァル・ド・ルエスト Societe Navale de l'Ouestのためにサンダーランド Sunderlandで建造された4隻の内の1隻で、4,000t以上のかなり大きな船であった。1939年3月に彼女はルーアン Rouanとアルジェリアの間を航行していたが、1939年1月以来、カタルーニャ Catalonia地方はフランス国境までフランス軍に占領されていたので、バルセロナに迂回したのは奇妙な行動であった。強風の中、ローズ湾に到着したサン・プロスペールは機雷に衝突し、1939年3月5日に終戦の1ヶ月足らず前に全員を残して沈没してしまった

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※バスク地方は、スペインとフランスに挟まれた山々(実にミネラル豊富な山々)とビスケー湾の間の一帯で、非常に異なる言語(言語名であるエウスケラは、ラテン語、ゲルマン語、スラブ語、セム語、北アフリカ語に関連せず、実際、既知のどの言語にも関連していない)と強いアイデンティティ、深いカトリック教に基づくアイデンティティを持っている。バスクの有力政党はPNVで、リベラル(アダム・スミスの自由主義の感覚)な民族主義政党であり、マドリードからの自治権を求めていた。思想的には人民戦線とはかなり離れており(非ファランジスタ/ファシスト右翼政党連合のCEDAと伝統主義君主主義カトリック政党のカルロイストの“混合”に近い)、左翼連合が強く望む自治を約束したのでPNVは人民戦線と連携し、バスク住民はこの二分化に分かれてしまったのだった。7月のクーデターが失敗した後、北部の反乱の主目的は、共和制の北部をフランス国境から切り離し、そののちバスク3州を一つずつ、次にサンタンデール Santanderの都市と港を含むカンタブリア地方 Cantabrian、最後にアストゥリアス Asturies州とその鉱山を征服することであった。そのため、最初の目標は、1936年8月末に征服した国境のすぐ上のイルン、次にサン・セバスティアン San Sebastian市と港、ギプスクオア Gipuzcuoaの主要都市、最後に1936年9月に反乱軍が陥落したパサヘス Pasajesとズマヤ Zumayaの漁港であった。この港(サン・セバスティアン、パサヘス、スマヤ)の陥落により、難民が続々とフランス国境を越えていった。しかし、それ以外の多くの人々は、海路でビルバオに向かった。ダナク・オンド Danak Ondoはディーゼル・エンジン付きの鋼鉄製流し網漁船で、パサヘスで建造され、1936年9月にビルバオに向かったが、最近創設されたバスク海軍がこの船を接収し、港湾パイロットの訓練船として使用した。そののち、サンタンデールに逃げ、フランスに渡った。終戦後、オーナーはこの船を取り戻し、漁業の仕事を続けた

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※マルコス Marcosは、木製の蒸気レシプロ・エンジンを搭載した流し網漁船。ズマヤで建造されたこの船は、バスク沿岸漁業船団に広く普及した小型船であった。ギプスコアの陥落によりビルバオに送られたのち、バスク海軍に接収され、D 17の数字を持つ掃海艇として使用された。ビルバオ陥落後、サントーニャ Santoñaに向かい、このカンタブリア港の避難中に座礁し、完全に失われた

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※1936年9月、ギプスコアの漁船Sevaralがビルバオに入港し、掃海艇として使用された。モウリスカ Mouriscaはヴィゴ Vigoのイギリス製流し網漁船で、鋼鉄製でレシプロ式蒸気機関を備えていた。内戦当初はビルバオにいたが、1937年初めに接収され、D 4と改名された。最初はMCM船として使用されたが、のちにビルバオとバイヨネ Bayone間のlaison shipとして使用されるようになった。ビルバオの陥落とともにバイヨネに抑留され、1939年に所有者に引き渡された

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※エドゥアルディト Eduarditoもまた、木造だがディーゼル・エンジンを搭載した流し網漁船で、パサヘスで製造され、サン・セバスティアンで登録された。1937年初めには接収され、軍用に改造されて掃海艇となり、ビルバオへのアクセス・ルートの確保に使用された。1937年6月13日のポルトガレテ Portugalete(バスク補助海軍の主要拠点)爆撃の際、エドゥアルディトは爆撃を受け沈没した

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※1936年9月にサン・セバスティアンを出港した船のひとつに、ドイツ製のヨット船ロリII Loli IIがあった。木造でディーゼル・エンジンの豪華な船は、クバス公爵 Duke of Cubasの所有物だった。この船はギプスコアの難民を乗せてビルバオに向かったが、政府に接収され、セヴェリアーノ・アサルタ Severiano Asartaと改名してビルバオとバイヨンヌ Bayonne間のlaisson shipとして配置された。そののち1937年6月には、ふたたびバスク人と共和国人の難民をサンタンデールに運ぶ船として使用された。そして、このカンタブリアの港が陥落すると、セヴェリアーノ・アサルタはバイヨンヌに向かい、終戦までフランスの港に抑留されたのである

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Update 24/09/07