スペイン内戦の艦船
Spanish Civil War Vessels

※スペイン内戦(スペイン語:Guerra Civil Espanola、英語:Spanish Civil War)は、1936年~1939年まで第二共和政期のスペインで発生した内戦。マヌエル・アサーニャ Manuel Azana Diaz率いる右派の人民戦線政府(共和派)と、フランシスコ・フランコ Francisco Franco Bahamondeを中心とした左派の反乱軍(ナショナリスト派)とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソヴィエト連邦、メキシコが支援、欧米市民知識人らも数多く義勇軍として参戦。フランコをファシズム陣営のドイツ、イタリア、ポルトガルが支持・直接参戦するなどした。1939年3月31日にスペイン全土が反乱軍に制圧、同年4月1日にフランコによって内戦の終結と勝利が宣言(ウィキペディアより)
※1936年7月21日の勢力図。ピンク色が共和派

※1936年8月~9月の勢力図。赤色が共和派

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※最初の予定艦名はレイナ・ヴィクトリア・エウヘニア Reina Victoria Eugeniaだったが、共和制移行時にレプブリカ Republicaと改名。のちに国粋派に拿捕されナヴァーラ Navarraと改名。スペイン内戦後半の1938年に竣工

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※駆逐艦セウタ Ceuta。イタリアから国粋派に嚮導駆逐艦Aquilaを譲渡されセウタと改名

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※軽巡洋艦メンデス・ヌネス Méndez Núñez。共和派で開戦時は海外に
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※国粋派特設巡洋艦マル・カンタブリコ Mar Cantabrico。共和派から拿捕されたのちに特設巡洋艦に改装。1937年後半に就役。内戦の終わりの数か月間、マル・カンタブリコは、地中海の共和派港湾を封鎖する国粋派封鎖部隊の旗艦

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※駆逐艦アルセド Alsedo。共和派だがあまり活動しなかった

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※上と同じアルセド級でも、こちらは国粋派側の駆逐艦ヴェラスコ Velasco。1938年に入渠、改装

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※テルエル級駆逐艦フエスカ Huesca、下は同級テルエル Teruel。1937年にイタリアから国粋派に嚮導駆逐艦Guglielmo pepeとAlessandro Poerioを譲渡され、それぞれフエスカとテルエルと改名

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※Vickers Normandが設計し、1912年~1921年に22隻がスペインの造船所で建造したT-1級水雷艇。最初の10隻は3軸、12隻は2軸だけ。450mm魚雷発射管(1基の単装と1基の連装)と3基のヴィッカーズ式47mm 2ポンド単装砲を装備。1926年のアルフセマス上陸を含む、モロッコでの戦争の間、数隻の船が使用された。1936年に艇の半分だけが使用可能な状態で、4隻は国粋派勢力、8隻は共和派に使用されていた。1936年9月に内戦開始直後に共和派のT-3などや数隻が破棄されたが、T-4や他数隻は内戦を生き延びた。下のT-19が国粋派に所属。1941年に廃棄

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※1910年~1912年にかけてSECN Cartagena造船所に建造された4隻の砲艦。ボニファズ Bonifazはレカルデ級の2番艦でレカルデとボニファズは1930年代初めに運用終了。下のラヤ Layaは共和派。1938年6月にヴァレンシア Valenciaにて係船中に空襲によって撃沈される。一番下は国粋派のラウリア Lauria

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※カノヴァス・デル・カスティーリョ Canovas del Castillo級という非常に活躍した砲艦のクラスは、1920年代初めに発注、1926年の重要なアルフセマス Alhucemas上陸作戦を含むモロッコ戦争のほぼ全ての重要な行動で活躍。1936年7月にカナレハス Canalejasとカノヴァス・デル・カスティーリョはカディス Cadizに、ダト Datoはセウタに停泊していたため、この3隻は国粋派側にあった。スペイン軍の最も専門的な部分はアフリカ軍(主にモロッコ北部)であり、部隊や砲兵の通過は戦争の最初の数週間で重要な問題であり、輸送機部隊(主にユンカース三発機)は重い荷物を運ぶことができなかったが、強力な共和派の戦隊が海峡をパトロールしていたので、海による任意の再編成は危険な作戦であった

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※1936年7月中旬に反共和制クーデターが失敗したのち、内戦開始に最も重要なのは、スペイン軍の中でも最も専門的な部隊であるアフリカ軍であり、鍛え上げられたヴェテランと戦闘に賢明な将校で構成されていることが明らかになった。しかし、艦隊のほとんどが共和派の手に残っていたので、スペイン領モロッコからアンダルシア Andalusiaへの海峡を渡るのは非常に危険なことだった。ドイツとイタリアの航空機による航空支援が組織されたが、軍隊の量は明らかに不足していた。1936年8月5日に小型輸送船シウダッド・デ・アルヘシラス Ciudad de Algecirasとシウダッド・デ・セウタ Ciudad de Ceutaを中心に結成された国粋派の護衛部隊がセウタからアルヘシラス Algecirasに向けて出航した。交戦は17:50に開始された。大西洋から共和派の駆逐艦アルカラ・ガリアノ Alcala Galianoが19時00分に国粋派の先頭の船、輸送船シウダード・デ・アルヘシラスを迎撃しようとしたが、砲艦ダトが攻撃を撃退したので、アルカラ・ガリアノは部隊の後部に行き、ゆっくりとした海を行く曳船アランゴ Arango(他に港湾曳船ベノ Benotがいたが、悪海に耐えられずセウタに戻ることを余儀なくされたため、弾薬のみを積んでいた)を拿捕しようとしたが、またしても武装トロール船ウアド・ケルト Uad-Kertと水雷艇T-19の砲兵、さらにはアランゴに乗船していた歩兵のライフル射撃で撃退された。そののち、先頭から戻ってきたダトも駆逐艦を砲撃。最後に、ドルニエ水上機が共和派艦を爆撃し、1つの爆弾を命中させた。それで、アルカラ・ガリアノは18名の死傷者と艦内にいくつかの損傷を負ってマラガ Malagaに向かった。国粋派の護衛隊は20時にアルヘシラスに停泊し、歩兵2大隊、砲兵隊、迫撃砲隊、信号中隊、救急車2両、数tの弾薬を上陸させた。他に兵員2,000名、105mm榴弾砲6門、迫撃砲4門。フランコ主義の歴史学では、この航海は“勝利の船団 the Victory Convoy”と呼ばれていた。画像は上から輸送船シウダッド・デ・アルヘシラス、武装トロール船ウアド・ケルト Uad-Kert、共和派の駆逐艦アルカラ・ガリアノ

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※1936年7月中旬に反共和派のクーデターが失敗したのち、共和派はスペイン海軍潜水艦の主要基地であるカルタヘナ Cartagenaを確保した。そのため、全ての潜水艦は三色旗を掲げていた。将校のほとんどが国粋派に味方したので、下士官と水兵たちは反乱を起こし、350名以上の将校(将官のほとんどを含む)が処刑(50名)されたり、殺害(300名)されたりした。すでに緩和されていた規律をさらに悪化させたのは、共和派艦隊の全ての船の本当の権限は、各船の“地方委員会 local committees”(ほとんどが共産主義者か無政府主義者の印)にあったという事実であった。スペイン共和国には指揮官のいない艦隊になってしまった。画像は最初に内戦中、撃沈された潜水艦B-6、武装蒸気曳船ガリシア Galiciaとの砲撃戦中に潜水艦が砲撃を受けたことが浮上し、国粋派の駆逐艦ヴェラスコが到着すると、潜水艦は降伏した。乗組員はほぼ全員救助されたが、機械長が内部に残ってヴァルヴを開けたため、B-6は沈没した。次が武装蒸気曳船ガリシア、その下は潜水艦C-3。1936年12月にマラガ沖にてC-3は浮上中にウルスラ作戦 Operation Ursula中(国粋派支援のため、地中海でのドイツUボート群の極秘作戦)のドイツ海軍潜水艦U34(12、艦長H. グローセ Harald Grosse)によって魚雷を撃ち込まれ撃沈された。生存者は3名のみ。一番下がそのドイツ海軍潜水艦U34(12

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※将官が国粋派にいたので、彼らは積極的な潜水艦作戦(スペイン海軍の12隻の潜水艦は共和派)の必要性を明確に理解し、1936年9月に2隻のドイツ潜水艦と6隻のイタリア船が地中海西部とスペイン沿岸を巡回してもらうよう、イタリア及びナチス・ドイツとの合意した。翌月、ドイツ海軍は共和派の潜水艦を魚雷で撃沈し、イタリア海軍は6インチの仮装巡洋艦を雷撃、損傷を与えた。しかし、これはイギリス海軍に警戒心を引き起こさせた。強力なイギリス海軍との衝突を回避するために、ドイツは2隻の潜水艦を退役し、イタリアは2隻のアルキメーデ Archimede級潜水艦を国粋派海軍に売却(他の4隻はスペインとイタリアの混合指揮下に置いた)。クラスのネームシップであるアルキメーデはC-3と、もう1隻のエヴァンジェリスタ・トリチェリ Evangelista TorriceliはC-5と改名された(共和派の諜報機関を混乱させようと試みるため:スペインのC級の2隻が先月に失わた)。のちに両方ともヘネラル・モラ General Moraとヘネラル・サンフルホ General Sanjurjoとそれぞれ改名。ヘネラル・モラは、スペイン内戦中に最も活躍した潜水艦であり、4隻撃沈。その内の1隻、ソヴィエト製の兵器を積んだ貨物船カボ・パロス Cabo Palosに損傷を与える

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※貨物船カボ・パロス、建造された時、スペインの商船隊の中で最大かつ最も近代的な船だった。Ybarraで建造された2隻の内の1隻で、スペインで最初に建造されたディーゼル・エンジン搭載船の1つ。内戦初期に共和派に接収され、スペインの地中海港~ソヴィエトの黒海の港間の輸送として使用された。沈没したとき、カボ・パロスはオデッサから30機のポリカルポフ単葉戦闘機、100門を超えるM1937 46口径45mm砲を積載していた。30万発の対戦車砲、15,000挺のモシン・ナガン・ライフル、戦車、大砲、機関銃用のスペアパーツ、約6,000万発の7.62mmx54R弾

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※ヘネラル・サンフルホは、マルセイユ Marseilleからバルセロナ Barcelonaまで、共和派に参加する国際旅団のヴォランティアが500名以上乗船していた、汽船シウダッド・デ・バルセロナ Ciudad de Barcelonaの撃沈に関わっていた

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※どちらの艦も戦争を生き延び、ドイツ潜水艦VII型が到着するまで、スペインの潜水艦隊最高の艦であった。カルタヘナを母港としていた。戦後まもなく、後部に100mm砲を搭載。1943年に沈没したUボートから乗組員を救出したときに、ヘネラル・サンフルホはイギリス海軍のT級潜水艦との事件に巻き込まれた。のちにさらなる混乱を避けるために、スペイン海軍の元イタリア潜水艦は両方とも白く塗られた。両艦とも1958年運用終了

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※1932年にメキシコ政府は艦船建造をスペインの造船所に依頼。これらの船の中で最も目立ったのは、ドゥランゴ Durangoとサカテカス Zacatecasと呼ばれる輸送艦兼砲艦で、前者はヴァレンシアのUnion Nacional de Levanteが、後者はカディスのEchevarrieta y Larrinagaにて建造された。このデザインは、500名の兵士もしくは400名の兵士と60頭の馬からなる大隊規模を輸送する事ができた。両艦の最初のデュランゴは1936年にメキシコ海軍に就役したが、その年の7月に反共和派のクーデターが失敗し、スペイン内戦が始まった。カディスは国粋派に占領され、すぐにメキシコの未竣工艦船が接収され、1938年に国粋派海軍用に120mm砲4門と88mm連装対空砲1門備えたCalvo Sotelo(他に3隻の同型艦も暗殺された政治家にちなんで命名)となる。任務の直後に、砲艦はあまりにも奇妙であることがわかり、武装の一部(最初に前部砲、次に後部砲、そして最後に88mm連装対空砲)が撤去された。船は全てのスペイン内戦中と第二次世界大戦中に地中海にいたが、まだトップヘヴィーの問題があり、残りの120mm砲は101mm軽量砲に変更され、Tarifaに拠点を置く魚雷艇部隊の補給船だった。戦後は海軍学校船、のちに比較的浅い艦齢にも関らず、最終的にLa Carraca-Cadizに係船され宿泊施設船となる

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※1936年8月5日の護送船団に参加した機動曳船エドゥアルド・ベノ Eduardo Benot。近代的な2基のディーゼル機関、2軸の港湾曳船だった。カディスの港湾当局のためにSECNによって建造。護送船団のより小さな船として、軍隊もしくは兵装無しで、弾薬だけが積まれた。海がますます悪化したため、ベノはセウタに戻ることを余儀なくされた

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※水路調査船アルタブロ Artabro。1932年にスペイン地理学会 Spanish Geographic Societyは、フランシスコ・イグレシアス Francisco Iglesias司令官(軍事エンジニア兼パイロット、1928年にセヴィーヤ Sevilleからバイアブラジル Bahia-Brasilへの連続飛行を行った)の指揮の下、アマゾン川流域への遠征に資金を提供し始めた。地域の地図作成が探検にとって最も重要であったため(“buque planero”という名前の地図作成船)、臨時の船がヴァレンシアのUnion Naval de Levanteによって作成された:サイズが狭く、最大ノット10kt未満の高度なディーゼル電気推進を搭載。船には地図作成、植物学、鉱物学、サウンド・フィルム処理の設置のための完全な実験室があり、アマゾン川に向かう船では非常に重要な存在だった。浅い喫水により船はドライ・ス​​テーションで航行で出来た。熱帯の暑い気候のための空調も設置。船体は厚い鋼板で作られていたため、アマゾン川流域の川でよく見られる丸太の衝撃に耐えることができた。特に興味深いのは、フロートを備えた2機のデ・ハヴィランド・フォックスモス飛行機の格納庫の存在だったが、購入されたDH60G IIIモス・メジャーは1機だった。残念ながら、遠征はスペイン内戦の勃発直前にキャンセルされた。アルタブロはゴンザレス Gonzalez司令官の指揮下にあるカルタヘナにあって共和派に忠実であり続けた(アルタブロは彼の最初の指揮で、その年の後半に駆逐艦艦長、のちに巡洋艦艦長、そして最後に1937年に全共和派艦隊の司令官)。船はすぐに軍用化に改装され、病院船としてマラガに送られた。その都市の崩壊後、共和派の乗組員は1937年2月に底弁を開いて自沈させた。しかし、船は国粋派海軍によって引き揚げられ修理された。第二次世界大戦中、スペインの魚雷艇隊の補給船に使用

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※アフリカの植民地向け哨戒艇として艦首に3インチ砲2基と、格納庫上にドイツ製の20mm機銃2基を備えた。第二次世界大戦終了後、アルタブロは海洋調査船として復帰、1949年にJuan de la Cosa(有名なスペインの地図製作者)に改名、この船名で1975年に運用終了

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※バスク Basque地方政府は、自由党であり、深くカトリックで非常に穏健なPNV(バスク民族主義党 Basque Nationalist Party)の支配下にあり、ほとんどの社会主義者(20世紀前半の非民主主義社会主義 non-democratic socialism)との唯一の接点だった。主に無神論者で革命的なフレンテ・ポピュラー Frente Popularは、自律性の約束だった。2つの非常に異なるイデオロギーが存在していた。自治が達成されたのち、バスク政府はPYSBE大型タラ用トロール船を中心としたバスク補助海軍を創設

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※これは、グレート・バンクス Great Banksの荒波に対処できる海上トロール船で、“武装したボウ armed bous”と呼ばれていた。ここに描かれているのは、アバディーン Aberdeen製の汽船ナバラ Nabarra(元ヴェンダヴァル Vendaval)。次にイギリス設計の2基の4インチ砲を搭載。ブリッジウィング bridge wingに2挺のSchwarzlose 8mm対空機銃を設置。船員は海軍軍人と戦闘経験の少ないPYSBEの船員と士官が配属された。唯一の軍人はガン・クルーだった。船首旗として、バスク民族主義の旗が掲げられた

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※国粋派海軍諜報機関は、メキシコとアメリカからの武装の重要な負荷を備えた大きくて速い共和派のディーゼル推進汽船マル・カンタブリコ Mar Cantabricoがビスケー湾 Bay of Biscayの共和派の港へのルートにあったことを突き止めた。2月末、ほとんど全ての国粋派艦隊はフランス国境からガリシア Galiciaまで海を捜索するため派遣された。ビルバオ Bilbao沖の巡洋艦カナリアス Canarias、サンタンデル Santander沖の戦艦エスパーニャ Espana、ヒホン Gijon沖の仮設巡洋艦シウダッド・デ・ヴァレンシア、ロワール Loire河口からGalernaまではその他の国粋派ボウ、駆逐艦ヴェラスコと他のボウがパサヘス Pasajesを封鎖しており、仮装巡洋艦Ciudad de Palmaがフランス領ウエサン Ouessant島まで足を延ばした

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※一方、バスク政府は、一般貨物と数tの硬貨(ベルギーでは1~2ペセタが硬貨で作られた)の接収した汽船ガルダメス Galdamesをバイオナ Baionaからビルバオまで護衛するように4隻のボウに指示した。1937年3月4日、カナリアスはガルダメスを捕獲するための命令を承認した

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※夜間、バスク部隊は悪海、視界の欠如、強制的無線沈黙によって各所分散されたため、ビルバオ沖にてガルダメスはナバラ Nabarraとドノスティア Donostiaのみによって護衛されていた。ビスカヤ Bizkayaとギプスコア Gipuzkoaは不明の敵艦船を見つけようとしていた。カナリアスは数時間前、400tの兵器を積んだエストニアの船ヨークブルック Yorkbrookを拿捕、バスク港のパサヘスに進むように指示された。カナリアスは早朝、ビルバオの修道院の入口から数マイル東にギプスコアを見つけ、砲撃戦になるもギプスコアは、なんとかポルガガレテ Portugaleteに到達した

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※そののち、カナリアスは北に向かってガルダメスを見つけて拿捕しようとした。商船を発見したのちにカナリアスは発砲し、ガルダメスに4.7インチ砲弾を命中させ降伏させた。ナバラは、1時間近くの間、巡洋艦と交戦しながら商船の防衛を試みた。のちに砲弾がナバラのボイラー室に命中、速度を急速に落とす。カナリアスに拿捕されて、火傷を負った20名の生存者が脱出に成功。ナバラは爆発しマチチャコ Machichaco岬に沈んだ

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※ドノスティア Dnostia(キャッスル Castle級のイギリス製トロール船)は、3インチ砲を使用することなく、なんとかフランスの港にたどり着いた

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※ヴェンダヴァルとナバラの姉妹船であるガレルナ Galerna。最初はバスク政府によってフランス~バスク港間の輸送として使用され、1936年後半に国粋派のボウ3隻に拿捕された。Ferrolにて改装。国粋派の北方艦隊で有用な船であり、共和派の港の無秩序な封鎖から、海岸砲台への砲撃、駆逐艦との戦闘、何隻かの輸送船とタンカーの拿捕などの任務を持っていた
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※米西戦争での惨敗ののち、スペイン艦隊は1908年の海軍法(Plan Maura-Ferrandiz)のおかげで再建されることになり、戦艦3隻、駆逐艦3隻、砲艦4隻、魚雷艇24隻の建造が含まれていた。イタリア(アンサルド Ansaldo)、フランス(フォルジュ・エ・シャンティエ・デ・ラ・メティエ Forges et Chantiers de la Mediterranee)、イギリス(SECN、ヴィッカース Vickers アームストロングホイットワース Armstrong-Withworth、ジョン・ブラウン John Brownからなるスペインとイギリスのコンソーシアム)の設計による競争の結果、イギリスの設計が選ばれた。それは非常に狭いサイズと排気量のドレッドノートであり(実際、それはこれまでに建造されたドレッドノートクラスの中で最小のものであった)、12インチ連装砲塔4基を前方に1基、艦尾に1基、そして船体中央に2基の“エンシェロン en echelon”で配置した。副砲塔は船体側面に20門の4インチ砲と、前方と後方の砲塔の上に2基のヴィッカース47mm砲を控え目な対空砲として配置していた。主水線装甲は8インチの厚さであった(ただし中央のシタデルの両端には4インチしかない)。側面砲塔は6インチの厚さの側面装甲で守られていた。各砲塔は8インチの側面装甲と10インチの厚さのバーベットを持っていた。推進システムは4軸のパーソンズ式蒸気タービンと12缶のヤーロー式石炭専焼ボイラーで構成されており、合計15,500馬力で最高速度はわずか19.5ktとかなり低かった。ネームシップである戦艦エスパーニャ Espanaは1913年10月に竣工し、1915年8月に2番艦のアルフォンソ12世 Alfonso XII、最後の戦艦ハイメ1世 Jaime Iは第一次大戦の論理的な供給問題に阻まれ、1921年12月まで竣工ができなかった。3隻の戦艦は第一戦闘戦隊 First Battle Squadronを形成し、モロッコ・リーフ戦争 Moroccan Rif War(1921年~1926年)で活躍した。メリーリャ Melilla沖での砲撃作戦中、エスパーニャはトレス・フォルカス Tres Forcas岬で座礁して全損となった(ただし乗組員は助かった)。1931年にアルフォンソ13世 King Alfonso XIIIの転覆と第二次スペイン共和国 Second Spanish Republicの成立後、彼の名を冠した戦艦は、かつての支配者であったボルボン王朝 Borbon dinastyとの繋がりを消すためにエスパーニャと改名。大恐慌の間、両戦艦はコスト削減のために退役させられたが、ハイメ1世は1933年に再役し、艦隊旗艦として活躍。1936年7月のクーデターにより市民戦争が開始されたとき、エスパーニャはFerrolにて乾ドックに入渠していた。エスパーニャは国粋派に接収された。ハイメ1世では、乗組員達は国粋派の将校に反乱を起こし、共和派のために艦を手に入れ、無政府主義的な委員会 committee of anarchist natureを結成した。 すぐに任務に復帰したのち(4インチ砲20門のうち12門のみが使用されていたが、ドイツ製の88mm対空砲4門と、同じくドイツ製の20mm機銃2基が前部と後部の砲塔に追加されていた)、エスパーニャは巡洋艦セルヴェラ Cerveraと駆逐艦ヴェラスコとともに、ヒホン、サンタンデル、ビルバオを含むスペイン北部の共和派の港を封鎖するために使用され、共和派への物資を積んだ船を頻繁に拿捕していた。エスパーニャは1937年4月30日にサンタンデル沖で封鎖任務中に、数日前に国粋派の機雷敷設船ジュピター Jupiterによって敷設された機雷に触雷して失われた。彼女は駆逐艦ヴェラスコが乗組員のほとんどを救助するのに十分な時間をかけて浮いたままだったので、5名だけが失われた。ハイメ1世はスペイン共和派海軍の中核を担っていた。共和派艦隊はモロッコでアフリカ軍を阻止しようとしたが、1936年8月7日、ハイメ1世はアルヘシラスを砲撃し、砲艦エドゥアルド・ダト Eduardo Datoを沈めた。同年8月12日にハイメ1世はマラガ沖でコンドル軍団の2機のユンカースJu52に攻撃され、艦首に命中してわずかに損傷を受けた。共和派海軍は、9月25日にヒホンに到着したビスケー湾に軽巡洋艦2隻、駆逐艦6隻、ハイメ1世を短期間に展開したが、この戦隊は特に成功することなく10月13日にすでに出航したが、その代償としてジブラルタル海峡を無防備に残し、モロッコから半島へのアフリカ・フランコ軍 francoist Army of Africaの完全な通過を可能にした。共和派の船が出航した時に、ハイメ1世はのちに4つの武装したbousにインストールされていた4つの副砲を残した。マラガが反乱軍に陥落したのち、共和派海軍はハイメ1世を浮き砲台としてアルメリアに配置し、副砲台を完成させた上で、艦尾にホチキス25mm軽対空連装砲を、中央砲塔の反対側にホチキス13.2mm連装機銃を2基設置した。1937年5月21日に戦艦は5機のイタリアのサヴォイアマルケッティSM.79の攻撃を受け、60発以上の220ポンド爆弾が投下され、3発が命中し、現地での修理ができないほどのダメージを受けたため、戦艦はカルタヘナに送られた。同年6月17日、戦艦は大規模な内部爆発で機能不全に陥り(妨害工作、火薬庫の近くで松明を使って板を修理する際に注意を怠ったこと、火薬庫でタバコを吸っていた水兵の規律の欠如などが原因と考えられる)、港にて沈没し多くの人命を失った(170~300名の死亡)。1年後、船体は再浮揚されたが経済的に復帰することができなかったので、副砲塔はいくつの海岸の要塞の武装に使用された。主要な銃の6つは上陸したが、1999年に破棄されるまでTarifaの近郊のフランコ主義者の支配地域に置かれただけであった

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※スペイン内戦の武装したトロール漁船、最終章:マチチャコ岬の戦いののち、ひどく損傷したギプスコアはビルバオに停泊し、修理した。上部構造は非常に変更され、装甲された操舵室が追加。残念ながら、修理はビルバオからサントーニャに向かう船の脱出を許可するためにちょうど間に合って行われた。この港では、バスク海軍が解散し、ギプスコアは共和派の海軍によって運営されるようになったため、ギプスコアに改名された。ブーは武装解除され、ビスケー湾内の外国の港(フランス)と共和派が保有する領土の両方への、主に難民の輸送手段として使用され始めました。サンタンデールの陥落後、ギプスコアは北の最後の共和派勢力であるヒホンに逃げ、数週間後、この港もフランコ主義勢力に征服されたため、ボウはボルドーに向かった。フランスでは船は係船されていた

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※バスク海軍から引き渡されたPYSBEの別のトロール船はヒスパニア Hispaniaだった。フランス製の鋼製船(Société Provençale des Constructions Navales at La Ciotatにて建造)は、1931年に最初にアルフォンソ13世 Alfonso XIIIと改名。1936年に接収され、最初に3インチ砲武装、のちに4インチ砲に換装、アラバ Arabaと改名

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※エンジンの問題に悩まされ、彼女はビルバオに停泊し、新しい装甲橋を含む大規模な近代化を受けた。残念ながら、ビルバオが国粋派軍に落とされた時、ブーは逃げることができなかったので、彼女の乗組員によって係留中に沈められた。1か月後、国粋派は彼女を再浮上させ、フェロールに牽引された。彼女は船体前後にドイツ製の88mm砲、中央に2基の47mmヴィッカース砲、13.2mmブレダ対空機銃を装備した沿岸警備隊所属のアラヴァ Alavaとして再役。彼女が作戦を開始したとき、北の戦争は終わり、主要な作戦行動は地中海にあったので、ガレルナと一緒に、ビスケー湾で最も強力な国粋派の船だった
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※シウダッド・デ・ヴァレンシア Ciudad de Valenciaは、バルセロナとヴァレンシアの都市部~バレアレス諸島 Balearic Islands間のルートのために、1931年にUnion Naval de Levanteにて建造。1936年7月18日のクーデターは、カナリア諸島 Canary Islandsのテネリフェ島 Tenerife Islandにてシウダッド・デ・ヴァレンシアとスペインモロッコ領ヴィラサンジュルホ Villa Sanjurjoにてシウダッド・デ・アリカンテ Ciudad de Alicanteを拿捕。両方の船は国粋派によって接収。1936年10月、両方の船はカディスのマタゴルダ Matagordaの工場で補助巡洋艦として武装。上部構造物は灰色で塗装、煙突にはパトグノモニックな黒い帯 patognomonic black bandがあり、全ての国粋派の船の特徴。120mm砲で武装したシウダッド・デ・ヴァレンシア、及び105mm連装対空砲(カディスの対空砲兵陣地から持ってきて設置)、2基の47mmヴィッカース砲及び13.2mmブレタ連装機銃(単装機銃ともいわれる)。シウダッド・デ・アリカンテには120mm砲、砲艇カナレハス Canalejasから102mm砲2基を持ってきて設置、47mm砲、13.2mmブレタ機銃が装備されていた

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※1936年後半、シウダッド・デ・アリカンテはスペイン領ギニアの守備隊を強化するために陸軍と共に航海し、国粋派のためにここ植民地を確保したが、国粋派軍の艦隊が不十分だったため、シウダッド・デ・ヴァレンシアはほぼ即座に北方海域に派遣された(古い戦艦1隻、重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻、4本煙突駆逐艦1隻、1隻の大型武装トロール船、およびその場しのぎの装備を備えた数十隻の小型トロール漁船)が、ビスケー湾の共和派港を効果的に封鎖した

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※1937年2月にシウダッド・デ・ヴァレンシアは撒積貨物船フェルナンド・イバラ Fernando Ybarraを拿捕し、3月にメキシコやアメリカからの重要な兵器を積んだ内燃機船マル・カンタブリコを拿捕するためにサンタンデル沖に配置された。その月の後半、ビスケー湾地域でも汽船エレツァ・メンディ Eretza Mendiを拿捕

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5月、シウダッド・デ・ヴァレンシアはタンカー・カンポアモール Campoamorを拿捕し、タンカーをサンタンデルの代わりにボルドーに向かわせた(数日後、国粋派の乗船者の一団が船を乗っ取り、国境近くのバスクの港であるパサジェス Pasajesに向かった)。その間、シウダッド・デ・アリカンテは地中海にいて、7月にギリシャのタンカーNausicaaを拿捕し、9月に郵便船J. J. SisterとJaime IIの拿捕を支援。 ビスケー湾にて共和派領が崩壊したのち、共和派の支配下にある数十隻のスペイン船(ほとんどがバスク船またはカンタブリック Cantabric船)が、主にイギリスの島々、ベルギー、フランスにあるいくつかの北ヨーロッパの港に向かった。1938年9月、共和派政府が全ての商船隊をソヴィエトのバルト海の港に集中させる計画を立てていることを知って、国粋派海軍は2隻の海賊船を北海に送ることにした。シウダッド・デ・ヴァレンシアとシウダッド・デ・アリカンテの両方がその出撃に備えていた。Ferrolにて白い浮揚線で上部構造物をベージュで塗装、前者はナディール Nadir、のちにはノアイク Noaikと改名、偽のノルウェー国旗とバルサ Barthaが母港という証明を付けた

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※1938年11月、シウダッド・デ・ヴァレンシアはロシアからの大麦を積んだ鉱石船リオ・ミエラ Rio Mieraを拿捕、数日後、数時間の活発な追跡とイギリスの管轄海域から出たのち、ノーフォーク Norfolk沖の汽船カンタブリア Cantabriaを銃撃して撃沈。最後に特設巡洋艦はバルト海に出撃し、汽船ゲルニカ Guernicaは拿捕を免れようとしてスウェーデンの海岸に座礁、全損。これらの行動ののち、1939年4月の終戦まで、北の海域での全ての共和派の航行は麻痺。戦後、両方の船は、戦争での激しい運用ののち、1970年代半ばに除籍するまでトラスメディテラニア Trasmediterraneaに引き渡された

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※別の特設巡洋艦シウダッド・デ・パルマ Ciudad de Palma。トラスメディテラニアのプリンシペ・アルフォンソ Principe Alfonsoとして1930年にモンファルコーネ Monfalconeにて建造。スペインの君主制が共和制に取って代わられた1931年に、船はシウダッド・デ・パルマに改名。これは、バルセロナ~バレアレス諸島マヨルカ Mallorca間の収益性の高いルート用に設計された2基のB&W製ディーゼル・エンジンを搭載した17ktの高速内燃機船であり、シウダッド・デ・バルセロナとほぼ同じであった

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※1936年7月18日のクーデターはマヨルカでシウダッド・デ・パルマは国粋派に拿捕にされた。10月、彼女はラ・スペツィア La Speziaで特設巡洋艦として武装し、船体中央部に120mm砲を2基、前後に76mm砲を2基、艦橋を渡ってドイツ製の20mm機銃を装備し、ほぼ即座にビスケー湾、封鎖艦隊(主に特設巡洋艦と武装トロール漁船で構成される)の指揮官であるカストロ・アリズクン少将 Rear Admiral Castro Arizcunの旗艦を務める

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※1937年4月、ヌニェス・イグレシアス Nunez Iglesias艦長は無線電信を巧みに利用して、シウダッド・デ・パルマは貨物船アギレ・メンディ Aguirre Mendiとウンベ・メンディ Unbe Mendiを拿捕。ウンベ・メンディは、ビルバオのエウスカルドゥナ Euskaldunaにて建造されたエレッツァ・メンディの同型船だが、全長が少し長くて排水量がある

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※北部の共和党領土の征服後、シウダッド・デ・パルマは武装解除されて病院船に改造。これは幸運な決断だった。7月にエブロ川 Ebroの激しい戦いが11月まで続き、人命に多大な犠牲を払ったからだ。シウダッド・デ・パルマはビルバオにいて、そのバスク港に到着した負傷者を最前線からビスケー湾のさまざまな都市のいくつかの病院に移動させていた。戦後、彼女はトラスメディテラニアに戻り、1967年に除籍されるまで活動を続けた

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※1930年代のスペインで最も重要な経済企業の重要な船であるバルク鉄鉱石運搬船フェルナンド L. デ・イバラ Fernando L. de Ybarra。1919年にSestaoのSECNによって建造された4隻の撒積鉱石運搬船のクラスの1隻。所有者はバスク地方のスペインの主要な鉄鋼メーカーであるアルトス・ホルノス・デ・ヴィスカヤ Altos Hornos de Vizcaya(AHV)だった。スペインの鉄鉱石採掘センターのほとんど(全てではないにしても)はビスケー湾に近い高地と山脈にあったため、載せる鉄鉱石港、石炭港(主にアストゥリアス Asturies)とバラカルド Baracaldo(AHV船隊の母港)の間の海上交通は激しいものであった。鉄鋼はバスク地方に配置された現代の産業にとって最も重要であり(ほとんどの銃器製造業者と多くの造船所と重工業がここにある)、それが北海岸の戦略的重要性だった。内戦の初めに、4隻の船はカンタブリック海域にいたときに共和派に接収、のちにバスク政府に接収され、鉄鉱石でイギリスに数回行った。しかし、1937年、2ヶ月月以内に、4隻の鉱石船のうち3隻が国粋派海軍に捕らえられた。1937年の大晦日、ヴィクトル・デ・チャヴァリ Victor de Chavarriはパサヘス沖の駆逐艦ヴェラスコに拿捕された。マルケス・デ・チャヴァリ Marques de Chavarriは、1937年2月の第1週に砲艦カノヴァス・デル・カスティーリョによってマラガ Malaga陥落時に拿捕された。そして数日後、再び北の海域で、特設巡洋艦シウダッド・デ・ヴァレンシアがフェルナンド L. デ・イバラを拿捕。コンデ・デ・ズビリア Conde de Zubiriaだけが、内戦が終わるまで翌年の終わりにウェールズ Walesに収容されるまで共和党の手に残った。フェルナンド L. デ・イバラと彼女の姉妹は戦争を生き延びたが、彼女は悲しい終わりを迎えた。1943年、激しい強風の最中にポルトガルの海岸、ペニシェ Peniche沖で座礁。34名の乗組員の内、8名の船員だけが生き残った

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