潜水艦
Submarines

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です


水上排水量:1,490t 水中排水量:2,600t 全長:97.65m 全幅:7.4m 吃水:4.51m 主機/軸数:ディーゼル・電気推進(2軸)、ディーゼル機関8,400馬力(6,300kW)、電動機2,400馬力(1,800kW)/1軸 出力:ディーゼル発電機(1,000kW)、電動機(5,500~6,800kW) 速力:水上22.5kt/水中10kt 航続力:11ktで14,000浬、全速時21ktで12.7浬/水中3.0ktで400浬 兵装:魚雷発射管(艦首4門、艦尾1門、艦尾外部魚雷発射管2)、魚雷計24本、100mm砲2基、45mm砲2基、機雷20個 試験潜航深度:70m(運用時)、300m(最深) 乗員:士官10名、下士官兵57名
※K型 K classもしくはクライセルスカヤ型 Kreiserskaya class(ロシア語:Крейсерская、直訳すると“巡洋艦 cruiser”の意)は、巡洋艦型潜水艦 cruiser submarinesの艦級であり、第二次大戦中にソヴィエト労農赤軍海軍向けに建造された潜水艦の中で最大のものであった。本級は、太平洋および北極海における海洋作戦を想定して設計された。同級は11隻が建造されたが、1隻は建造中止となり解体された。K型潜水艦は北方艦隊およびバルト艦隊に配備され、主にノルウェー沿岸で実戦を経験した。また、カチューシャ型 Katyusha classという愛称でも呼ばれた※この設計は1936年、強力な魚雷および砲熕兵装を備えた長距離の“巡洋潜水艦”として承認された。本艦は、主力艦隊と行動を共にする艦隊型潜水艦として、あるいは長距離の通商破壊艦として運用可能であった。1936年1月、本計画は当初“KE-9 XIV型(ロシア語: КЭ-9 XIV серии)”と命名された。これは“巡洋・艦隊型(ロシア語: крейсерско-эскадренная)”潜水艦の略称である。本型はプラヴダ型 Pravda classを大幅に改良したものであり、同型が抱えていた欠点の大部分を克服していた。二重船殻構造は7つの区画に分割されていた。当初は偵察用の小型水上機を搭載する計画もあったが、予定されていた機体の強度が不足していたため、この構想は断念された。ヤクボフ Yakubovとワース Worthは、本級を第二次大戦期におけるソヴィエト潜水艦の中で最も成功したものと評しており、高速かつ優れた耐航性を備えていたと述べている。また、第二次大戦期のソヴィエト潜水艦の中で、最も優れた換気・空調システムを備えていた。艦内には、全乗組員分の寝台、士官用の個室、シャワー、電気ヒーター(本型は主に北極圏での運用を想定して設計された)、電気調理設備といった居住設備が整っており、船体内部の居住空間も広々としていた。潜航所要時間は60秒であった。1944年、アメリカ海軍の造艦技術者らがK-21を視察した際、その設計は堅実ではあるものの、同時代のアメリカの潜水艦(ガトー級など)と比較すると技術的に劣っていると評価された。1941年には、全溶接構造を採用した改良型であるKU型の計画が進められていた。24隻の建造が予定されていたが、1隻も着工されることはなかった

↑Image courtesy of Shipbucket.

※全12隻は、バルト海に面したレニングラードのMarti Yard/Ordzhinikidze Yardで、ソヴィエト北方艦隊向けに建造された。K-1からK-23まではドイツ軍の侵攻前に引き渡されたが、K-51からK-56までは包囲下のレニングラードに取り残された。これらは戦後に竣工し、北極方面へ回航された
艦種記号 建造所 就役日 退役日 除籍日 備考
K-1 Marti Yard/Ordzhinikidze Yard 1940/5/26 ― ◎1936/12/27 起工
◎1938/5/4 進水
◎6月23日に白海・バルト海運河を経由してレニングラードからPolyarnyへ出航した。8月6日には北方艦隊 Northern Fleetに就役した。大祖国戦争中、この潜水艦は16回の哨戒を行い、そのうち半分は機雷敷設任務であった。K-1は1942年8月11日に機雷で損傷したが、3日後に港に戻ることができた。この潜水艦は1943年9月5日に基地を出航し、そののち音も姿も聞かれることはなく、おそらくドイツ海軍重巡洋艦アトミラール・ヒッパー Admiral Hipperが敷設した機雷によって沈没したと思われる

(↑アトミラール・ヒッパー級重巡洋艦アトミラール・ヒッパー(1940年ノルウェー侵攻時))
☆K-1の撃沈スコア
K-2 Marti Yard/Ordzhinikidze Yard 1940/5/26 ― ◎1936/12/27 起工
◎1938/5/4 進水
1942年8月26日以降、消息不明(1942年9月、ノルウェーのTanafjord近海にて、機雷により沈没した可能性が高い)
K-3 Marti Yard/Ordzhinikidze Yard 1940/12/19 ― ◎1936/12/27 起工
◎1938/7/31 進水
◎1940/11/27 竣工
◎12月19日にバルト艦隊 Baltic Fleetへ編入されたのち、独ソ戦の開戦まで試験運用に供された。1941年7月26日、同艦はボーンホルム島 Bornholm Island沖で機雷敷設を試みたが、技術的な問題により任務の中断を余儀なくされた。8月21日、レニングラードを出航し、白海・バルト海運河を経由してベロモルスクへ向かった。9月9日に到着した同艦は、北方艦隊に編入された。そののち、9月25日にモロトフスク(現セヴェロドヴィンスク)へ、続いてPolyarnyへと移動した
◎11月23日、K-3はドイツ占領下のノルウェーにあるハンメルフェスト沖に2か所の小規模な機雷原を敷設した。その2日後にはノルウェーのトロール漁船を砲撃し、乗組員7名を負傷させた。12月3日、魚雷攻撃に失敗したのち、ドイツ海軍の対潜哨戒艇UJ1403、UJ1416、UJ1708による爆雷攻撃を受け、損傷を負った。K-3はやむを得ず浮上し、ドイツの3隻の哨戒艇と砲戦を展開した。この戦闘でUJ1708を撃沈し、残る2隻を撤退させた。1942年3月から4月にかけては、船団QP 10およびPQ 14の南側側面を護衛する任務に就いた5隻の潜水艦のうちの1隻となった。1942年11月および1943年1月初旬には哨戒任務に従事したが、特筆すべき事象はなかった。同月後半には、船団JW 52の護衛を行った。2月5日、同艦は同型艦K-22とともに、ドイツの対潜哨戒艇2隻に対して初の共同攻撃を実施した。K-3はUJ1108を撃沈したものの、K-22の攻撃を妨げる結果となった。同艦は北極海において、計9回の戦闘哨戒任務を行った。K-3は3月21日、ドイツの対潜艇UJ1102、UJ1106、UJ1111による爆雷攻撃を受けて沈没した。あるいは、Porsangerfjordenで機雷に触れて沈没した可能性もある
☆K-3の撃沈スコア
K-21 Marti Yard/Ordzhinikidze Yard 1941/2/3 ◎1937/12/10 起工
◎1939/8/16 進水
◎1941年2月3日、ニコライ・ルーニン Nikolai Lunin指揮下でバルト艦隊に編入・就役した。1941年9月17日には北方艦隊へ転属となった
◎最初の哨戒任務において、K-21はベスト・スン海峡(Strait of Best-Sung)に11個の機雷を敷設した。1941年11月27日朝、そのうちの1個がノルウェーの輸送船Bessheimに命中し、同船は沈没した。1941年11月9日から1942年3月31日にかけて、K-21は商船3隻およびドイツの補助哨戒艇1隻に対して攻撃を試みたが、いずれも戦果はなかった。1942年1月21日には、ノルウェーの漁船F-223N IngøyがK-21の砲撃により沈没した
◎PQ 17船団 PQ 17 convoyの作戦中にドイツ海軍戦艦ティルピッツ Tirpitzへの攻撃を試みたが失敗
1943年2月12日、K-21はLopphavet海域にて、砲撃によりノルウェーの小型モーター・ボート4隻を撃沈した。また1943年4月22日には、同年2月18日にK-21が敷設した機雷によって、ドイツの商船Dunaが沈没した。1945年5月には、同艦の修理が行われた
◎1948年10月、K-21はソヴィエトの潜水艦として初めて、米国沿岸沖を航行した。1949年4月6日から14日にかけては、ノヴァヤゼムリャ諸島周辺海域における海洋調査活動に参加した。退役後は、約20年にわたり練習艦として運用された。1981年春、同艦はムルマンスク州ポリャルヌイ市へ回航され、博物館船として整備されることとなった。展示用に3つの区画が改修されたのち(ほかの4区画はほぼそのままの状態で残された)、この潜水艦はロシアのセヴェロモルスクにて、台座の上に設置され(満潮時には水に浸かる形となる)、博物館として公開された。博物館は1983年に開館した。1990年代後半には、艦体全体にわたる修繕が行われた。2008年から2009年にかけては、博物館の改修工事が実施された
☆K-21の撃沈スコア
K-22 Marti Yard/Ordzhinikidze Yard 1940/8/7 ― ◎1938/1/5 起工
◎1938/11/3 進水
◎1940/7/15 竣工
◎1940年8月7日、バルト艦隊に編入された。6月22日にソヴィエトが侵攻を受けると、同艦は白海・バルト海運河を経由して、レニングラードからモロトフスク(現在のセヴェロドヴィンスク)へ回航された。K-22は8月22日に出発し、9月4日に現地へ到着した。そののち、9月17日付で北方艦隊に移管された
◎10月から11月にかけて行われたノルウェー沿岸での最初の哨戒任務は、特筆すべき出来事もなく終了した。12月初旬にはノルウェーのRolvsøya付近に機雷を敷設し、12月9日には小型船に対して砲撃を試みたが、戦果はなかった。その2日後、K-22は小型船団に対して砲撃戦を行った。3回目の哨戒中の1942年1月19日には、Berlevågの漁港を砲撃した。さらに、難破していた貨物船Mimonaに追い打ちをかけて損傷を与え、漁船1隻を砲撃により沈没させた。4月には、PQ 13船団の南側側面を護衛する4隻の潜水艦のうちの1隻として行動した。4月3日、ノルウェーのSvaerholt Peninsula付近で、掃海艇3隻からなる船団を攻撃したが、戦果はなかった。4月9日、機雷に触れて航行不能となっていた潜水艦ShCh-421を発見した。K-22はShCh-421の乗組員を救助したのち、魚雷を用いて同艦を処分(自沈)した。1943年2月7日、K-22はノルウェーのVardø沖で機雷に触れ、乗組員全員とともに沈没した
☆K-22の撃沈スコア
K-23 Marti Yard/Ordzhinikidze Yard 1940/10/25 ― ◎1938/2/5 起工
◎1939/4/28 進水
◎1940/9/25 竣工した
◎10月25日にはバルト艦隊に編入された。1941年6月13日、同艦はレニングラードを出航し、白海・バルト海運河を経由してモロトフスク(現在のセヴェロドヴィンスク)へ向かっていたが、その途上の6月22日、枢軸国軍によるソヴィエト侵攻が開始された。7月12日に目的地へ到着し、9月17日には北方艦隊に編入された
◎同潜水艦の最初の哨戒任務は、10月29日にノルウェーのキルケネス沖で機雷原を敷設することであった。この作戦により、掃海艇1隻が損傷し、3,664総トンの蒸気船1隻が沈没した。続く任務では、11月19日から20日にかけてクヴェナンゲン沖に4つの小規模な機雷原を敷設した。1942年1月6日から7日にかけては、ポルサンゲルフィヨルド沖に2つの機雷原を敷設し、小型沿岸貨物船1隻を沈没させた。3月には、船団PQ 12およびQP 8の南側側面を護衛する6隻の潜水艦部隊の一員として行動したが、この哨戒において特筆すべき出来事はなかった。4月から5月にかけては、船団QP 11に対しても同様の任務に就いた。船団がその海域を離れたのち、ソヴィエトの潜水艦部隊はノルウェー沿岸へと向かった。5月12日、K-23はノルドキン岬沖で小型船団を攻撃したが、戦果は挙げられなかった。同艦は、水上での優れた速力を活かして護衛艦艇から逃れようとしたが、護衛艦艇に呼び寄せられた航空機によって潜航を余儀なくされ、ドイツの対潜哨戒艇(UJ艇)UJ1101、UJ1108、UJ1110による爆雷攻撃を受けて沈没した。K-23は、その全運用期間を通じてマゴメト・ガジエフ Captain Magomet Gadzhiyev艦長の指揮下にあった。彼は死後、“ソ連邦英雄 Hero of the Soviet Union”の称号を授与された
☆K-23の撃沈スコア
K-51 Marti Yard/Ordzhinikidze Yard 1941/9/17 1975/3/13 ◎1938/2/26 起工
◎1939/7/30 進水
◎1942年6月22日に枢軸国軍が侵攻を開始した時点で、本潜水艦の建造進捗率は88%であり、9月には竣工する予定であった。9月17日、本来行われるべき受領試験を経ることなく、バルト艦隊に暫定的に就役した。12月22日、損傷したK-52の代替として長期哨戒任務に就く準備を進めていた際、K-51は氷による損傷を受けた。1942年4月24日には、ドイツ軍機による攻撃で損傷した。1943年11月17日に再就役したが、完全な作戦能力を備えるに至ったのは1944年11月のことであった
◎K-51は最初の哨戒任務において、11月27日から12月1日にかけてバルト海南東部で7回の魚雷攻撃と2回の砲撃を行ったが、いずれも戦果はなかった。1945年1月にはふたたび哨戒に出撃し、1月28日にデンマークの小型貨物船を撃沈した。2月6日にも別の貨物船に対して2回の攻撃を試みたが、命中させることはできなかった
◎1948年8月、同艦は北方艦隊へ転属となり、翌年には艦種記号をB-5に改めた。1950年代初めには、ドイツのV1ミサイルを模倣した巡航ミサイル10KhNの試験艦として改修された。しかし、この計画は1953年2月に中止され、同艦の再改修は行われなかった

(↑Fi103(V1))
1955年12月29日、B-5は武装を解除され、補助任務へと回された。1956年には艦種記号をPZS-24に改められ、短期間ながらバッテリー充電艦として運用された。同年後半には艦種記号をZAS-1に改められる。1958年には艦種記号をUTS-30に改められ、練習艦となった。その潜水艦は1975年3月13日に除籍され、同日、解体のため引き渡された
☆K-51の撃沈スコア
K-52 Marti Yard/Ordzhinikidze Yard 1942/10/11 1978/3/20 ◎1938/2/26 起工
◎1939/12/5 進水
K-53 Marti Yard/Ordzhinikidze Yard 1943/8/31 1960/3/11 ◎1938/5/30 起工
◎1939/9/2 進水
K-54 Marti Yard/Ordzhinikidze Yard ― ― ◎1937/4/30 起工
◎1941/3/8 進水
◎就役せず、1949年に解体
K-55 Marti Yard/Ordzhinikidze Yard 1944/12/15 1954/9/11 1964 ◎1937/4/29 起工
◎1941/2/7 進水
K-56 Marti Yard/Ordzhinikidze Yard 1942/11/25 1956/12/30 ◎1937/10/17 起工
◎1940/12/19 進水
◎1941年6月22日に枢軸国軍が侵攻を開始した時点で、同潜水艦の建造進捗率は87%であり、9月には竣工する予定であった。しかし、この侵攻の影響で竣工は1942年10月29日まで遅れた。11月12日、同艦はバルト艦隊に編入された。枢軸国側の強固な防衛体制に阻まれ、エストニアが解放されたバルト海攻勢後の1944年10月になるまで、最初の哨戒任務に出ることはできなかった
◎K-56は東プロイセン沿岸で哨戒を行い、10月26日にはBrüsterort沖で標的の船を攻撃したが、命中しなかった。12月中旬には次の哨戒任務に出航した。12月23日には練習船Hansaへの攻撃に失敗し、2日後にも別の船を攻撃したが命中せず、12月26日には商船Baltenlandを損傷させた。さらにその3日後には、スウェーデンの蒸気船Venersborgを魚雷で攻撃した。K-56の次の哨戒は1945年3月下旬まで行われなかった。4月4日にはStolpe Bankの北方で対潜哨戒艇UJ1201を攻撃したが命中しなかった。そののち、4月11日にはスウェーデンの小型帆船Ramonaを砲撃により撃沈した
◎1957/10/16 核実験の際に沈没し、除籍
☆K-56の撃沈スコア


Update 26/10/25