戦艦
Battleships

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です
※ロング・トン(long ton)は、帝国単位(ヤード・ポンド法)の質量の単位。2,240ポンド(lb)と定義され、正確に1,016.0469088キログラム(kg)に等しい。インペリアル・トン(imperial ton、帝国トン)とも言い、日本語では英トンとも呼ばれる。アメリカで使用されているショート・トン(short ton、2,000 lb、907.18474kg)に対して約12%大きく、メートル・トン(metric ton、1,000kg)に対して1.6%大きい。イタリア海軍の命名規則により“ヴィットリオ・ヴェネト級”が正式名称。着工の順番: 同型艦の中で最初に起工されたのがネームシップの“リットリオ”だったため、英語圏などでは“リットリオ級”と表記されることが多くある
常備排水量:43,835t 満載排水量:45,960t 全長:237.80m 垂線間長:224.05m 幅:32.95m 吃水:10.54m 主缶:ヤーロー缶8基 主機/軸数:ブルッゾ式ギアード・タービン4基/4軸 出力:130,000馬力 速力:30.0kt 燃料搭載量:重油4,210t 航続力:16.0ktで4,580浬 兵装:50口径381mm3連装砲3基、55口径152mm3連装砲4基、50口径90mm単装砲12基、40口径120mm単装砲4基、54口径37mm機関砲20基、65口径20mm機関砲16基 装甲:舷側装甲帯350mm、甲板207mm、主砲塔380mm、副砲塔280mm 搭載機:水上機3機 乗員:士官80名、下士官兵1,750名

↑戦艦ヴィットリオ・ヴェネト級

↑Image courtesy of Shipbucket.

※下の画像は1936年時点のリットリオ級の設計図。航空施設はさらに船首側に配置され、上部構造の塔ははるかに簡素化されており、90mm対空砲の配置も異なる

↑Image courtesy of Shipbucket.

※こちらは1937年のリットリオ級設計図。唯一の違いは船首部分で、より直線的ですが、上部はより湾曲している

↑Image courtesy of Shipbucket.

※建造が計画通りに進んでいたと仮定すれば、インペロは1942年後半、遅くとも1943年初頭には竣工していた可能性がある。同型艦のローマとは異なり、インペロは就役時の船首形状をそのまま維持しており、ほかの同型艦のように船首を改修してはいない。下は1943年に竣工したと仮定したインペロ

↑Image courtesy of Shipbucket.

艦名 NAME 建造所 就役日 退役日 除籍日 備考
ヴィットリオ・ヴェネト Vittorio Veneto Cantieri Riuniti dell'Adriatico, Trieste 1940/4/28 1948/2/1 1948/2/1 ◎1934/10/28 起工
◎1937/7/25 進水
◎1940/5/20 第9戦隊 9th Divisioneに編入
◎1941/3/26 ギリシャとクレタ島からの陸上基地ブレニム爆撃機を含むイタリア艦隊に対して数回の空襲を行った。午後遅く、航空母艦フォーミダブル Formidable(67)は2回目の攻撃を開始し、15時10分に同艦のソードフィッシュの1機がヴィットリオ・ヴェネトの左舷後部に命中した。イタリアの対空砲手は魚雷を発射した同機を撃墜した。命中により左舷のプロペラが切断され、シャフトが損傷し、左舷の舵が固着し、後部左舷のポンプが機能しなくなった。また、深刻な浸水も引き起こし、約4,000ロング・トン(4,100t)の水が船内に流れ込み、船は左舷に4~4.5゚傾き、約10分間停止を余儀なくされた。船が動けなくなっている間に、ブレニム爆撃機が爆弾を投下し、船尾付近に着弾した。爆発により、船尾に軽微な損傷が生じた。3月29日にタラントに到着し、修理は7月まで続いた
1941/12/13 ヴィットリオ・ヴェネトはメッシーナ海峡にてイギリス海軍潜水艦アージ Urge(N.17)の魚雷攻撃を受けた。アージは3本の魚雷を発射したが、左舷に命中したのは1本だけだった。魚雷は13m(43フィート)の穴を開け、2,000t(2,000ロング・トン、2,200ショート・トン)以上の水が船内に浸水したが、艦のプーリア式魚雷防御システムが爆発をうまく抑え込んだ。ヴィットリオ・ヴェネトは左舷に3.5゚傾き、船尾が2.2m(7フィート3インチ)沈んだ。右舷側の最前部砲塔横の区画に浸水処理を施したところ、傾斜が1゚軽減され、自力で左舷に戻ることができた。タラントに戻って修理を受けたが、修理は1942年初めまで続いた
◎1942/6/15 米陸軍航空軍のB-24リベレーターによる別の空襲が行われた。高高度爆撃機はリットリオに1発命中し、リットリオとヴィットリオ・ヴェネトの周囲に数回ニアミスしたが、どちらの艦も深刻な損傷は受けなかった
1943年6月5日、ヴィットリオ・ヴェネトはLa Speziaへのアメリカ軍の空襲で大きな損傷を受けた。艦首に向かって2発の大型爆弾が命中したが、爆発したのは1発だけだった。その爆弾は艦を貫通して船体の下で爆発し、深刻な構造的損傷を引き起こした。La Speziaの造船所も攻撃で損傷していたため、損傷により修理のためにGenoaへ移送せざるを得なかった
◎1947年2月10日に署名されたイタリアとの平和条約で、ヴィットリオ・ヴェネトは戦利品としてイギリスに割り当てられた
◎1951 La Speziaにて解体(~1954)
◎ヴィットリオ・ヴェネトから奪取された12基の90mm対空砲は、ユーゴスラヴィア人民軍(JNA)によってジルイェ島の沿岸砲台の武装として再利用された。この砲台は、クロアチア独立戦争中の1991年9月14日にクロアチア国家警備隊に抵抗なく降伏し9月16日から22日のシベニクの戦いで重要な役割を果たし、JNAからシベニク市を防衛し、ユーゴスラヴィア海軍の哨戒艇と掃海艇34隻(ユーゴスラヴィア艦隊の4分の1)を港に閉じ込め、最終的にクロアチア軍に拿捕された
☆ヴィットリオ・ヴェネトの撃沈スコア(以下の艦船)
・1940/11/26 イギリス海軍軽巡洋艦Manchester(15、スパルティヴェント岬の戦いにて損傷を与える)
(←イギリス海軍軽巡洋艦ハーマイオニ(74、1942年時))
・1941/11/26 イギリス海軍軽巡洋艦Orion(85、マタパン岬沖海戦にて損傷を与える)
(←イギリス海軍リアンダー級(戦前仕様))
リットリオ Littorio Ansaldo, Genoa-Sestri Ponente 1940/5/6 1948/6/1 1948/6/1 ◎1934/10/18 起工
◎1937/8/22 進水
◎進水後、艤装期間は1940年初めまで続いた。この間、リットリオの船首は振動を軽減し、船首の濡れを減らすために改装された
◎就役後、第9戦隊 9th Divisioneに編入
1940年11月10日から11日の夜、イギリス地中海艦隊はタラント港への空襲を開始した。飛行機はリットリオに魚雷3発命中。艦尾への命中により舵が破壊され、爆発の衝撃で操舵装置が損傷した。艦首への2発の命中により大規模な浸水が発生し、艦は艦首を下にして沈み、甲板は主砲塔まで水没した。竜骨の下に4発目の不発魚雷が発見されたため、12月11日までドック入りできなかった。魚雷の周囲の磁場が少しでも変化すると磁気起爆装置が爆発する可能性があるため、魚雷の除去は骨の折れる作業となった。修理は1941年3月11日まで続いた
◎1942年1月3日、リトリオはふたたびM43作戦を支援する船団護衛任務に就き、1月6日までに港に戻った。3月22日、マルタに向かうイギリスの船団を破壊しようとするイタリア軍の旗艦として、第二次シルト海戦に参加した。日没後、数隻のイギリス駆逐艦がリットリオに近距離攻撃を仕掛けたが、主砲と副砲からの激しい砲撃により駆逐艦は撤退を余儀なくされた。駆逐艦が撤退する際、そのうちの1隻がリットリオに120mm砲弾を1発命中させ、艦尾に軽微な損傷を与えた。リットリオの後部砲塔からの砲口爆風で水上機の1機が炎上したが、艦に深刻な損傷はなかった
◎1942/6/15 リットリオはB-24リベレーター爆撃機が投下した爆弾の直撃を受けた。爆弾は第1砲塔の屋根に命中したが、測距儀フードと砲郭への損傷はごくわずかで、甲板に破片による損傷を与えただけであった。その日の夜、真夜中直前に、リットリオはイギリスのウェリントン爆撃機が投下した魚雷の直撃を受け、約1,500ロング・トン(1,500t)の水が艦首に浸水した
◎リットリオは、イタリア海軍の深刻な燃料不足のため、1943年の最初の6か月間は活動していなかった。リットリオ、ヴィットリオ・ヴェネト、そして最近就役した同型艦ローマに十分な燃料があったが、それでも燃料は緊急時のみに十分な量だった。1943年6月19日、アメリカ軍の爆撃がLa Spezia港を標的とし、リットリオに3発の爆弾が命中した。ベニート・ムッソリーニ Benito Mussolini政権が崩壊したのち、7月30日にイタリア Italiaと改名された。9月3日、イタリアは連合国と休戦協定を結び、第二次大戦への積極的な参加を終えた。6日後、イタリアとイタリア艦隊の残りはマルタに向けて出航し、そこで戦争の残りの期間抑留されることになった。航海中、ドイツ空軍はフリッツX無線誘導爆弾を搭載したドルニエDo217でイタリア艦隊を攻撃した。フリッツXの1発がイタリアの1番砲塔のすぐ前方に命中し、船体を貫通して船体から飛び出し、船底で爆発して深刻な損傷を与えた。一方、ローマはこの攻撃で沈没した
◎イタリアとヴィットリオ・ヴェネトはそののち、まずエジプトのアレクサンドリアへ、そして9月14日にエジプトのスエズ運河にあるグレート・ビター湖へと移動し、終戦までそこに留まった。1947年2月5日、イタリアはついにイタリアへの帰還を許可された。5日後の2月10日に署名されたイタリアとの平和条約で、イタリアは戦利品としてアメリカ合衆国に割り当てられた
◎1952 La Speziaにて解体(~1954)
☆リットリオの撃沈スコア(以下の艦船)
・1942/3/22 イギリス海軍駆逐艦Havock(H.43、シルテ湾にて損傷を与える)
(←イギリス海軍駆逐艦ヒアワード(H.93、1937年時))
・1942/3/22 イギリス海軍駆逐艦Kingston(F.64、シルテ湾にて損傷を与える)
・1942/3/22 イギリス海軍軽巡洋艦Euryalus(42、シルテ湾にて損傷を与える)
(←イギリス海軍軽巡洋艦ハーマイオニ(74、1942年時))
ローマ Roma Cantieri Riuniti dell'Adriatico, Trieste 1942/6/14 ◎1938/9/18 起工
◎1940/6/9 進水
◎1942/8/21 第9戦隊 9th Divisioneに編入
◎1942/12/6 ローマはヴィットリオ・ヴェネト、リットリオとともにLa Speziaへ移動し、そこでイタリア海軍の旗艦となった。彼らは1943年前半を通してここに留まり、作戦行動には参加しなかった
1943年6月5日のアメリカ軍の空襲でヴィットリオ・ヴェネトとローマの両方が深刻な被害を受けた。908kg (2,002ポンド)の徹甲爆弾を搭載したB-17爆撃機が、停泊中の戦艦にそれぞれ2発ずつ爆弾を投下し、損傷を与えた。ローマは艦首の両側に2発の至近弾を受けた。右舷側の爆弾は艦に命中したが、爆発する前に船体側面を貫通した。艦は221番から226番のフレームからの漏水(約3.0平方フィート(3.0 平方m)の範囲)と艦首から212番のフレームへの浸水によって浸水し始めた。2発目の爆弾は命中しなかったが、船体近くの水中で爆発した。フレーム198から207にかけての30平方フィート(2.8平方m)の範囲で漏水が発見された。約2,350ロング・トン(2,390t)の水が船内に流入した。ローマは6月23日~24日の別の空襲でふたたび2発の爆弾の被害を受けた。1発は船尾と後部主砲塔の右舷側に命中し、複数の客室を破壊し、配管の破損によりすぐに浸水した。2発目は後部砲塔の真上に着弾したが、その部分の装甲が厚かったため被害は少なかった。この攻撃でローマは深刻な損傷を受けたり浸水したりすることはなかったが、それでも修理のためにジェノヴァへ向かった。ローマは7月1日にGenoaに到着し、修理完了後、8月13日にLa Speziaに戻った
◎1943年9月8日の休戦協定の宣言後、ドイツ軍の手に落ちるのを防ぎ、連合軍が支配する港に到着するために、La Speziaを出航するよう命じられた
1943/9/9 ドイツ空軍第100戦闘航空団 Kampfgeschwader 100のドルニエDo217が発射したフリッツX無線誘導爆弾により、イタリアは右舷前方主砲塔の下に被弾し、ローマは同じ側のフレーム100から108の間のどこかに被弾した。この爆弾は艦を貫通して竜骨の下で爆発し、船体桁を損傷し、後部機関室と2つのボイラー室に水が浸入した。浸水により、動力不足で船内プロペラが停止し、大量のアーク放電が発生し、それが船の後部半分で多数の電気火災を引き起こした。出力と速度が低下したローマは戦闘群から離脱し始めた。1602時ごろ、別のフリッツXがローマの甲板の右舷側、123番フレームと136番フレームの間に激突した。おそらく前部機関室で爆発し、火花が散り、 2番主砲塔と前部左舷副砲塔の弾薬庫に大量の浸水を引き起こし、すでにストレスを受けていた船体桁にさらに圧力をかけた。最初の爆発から数秒後、今度はその砲塔の弾薬庫の爆発による大爆発で、2番15インチ砲塔が舷外に吹き飛ばされた。これにより艦首に壊滅的な浸水が起こり、戦艦は艦首から沈み始め、右舷にますます傾いていった。艦はすぐに転覆し、二つに折れた。沈没後に行われた公式調査によると、出航時の乗組員は1,849名で、596名が生存し、1,253名がローマとともに沈没した
沈没した船は、イタリア人エンジニアのグイド・ゲイ Guido Gayが設計した水中ロボット“プルート・パッラ Pluto Palla”によって2012年6月に発見された。サルデーニャ島の北岸から約30km(19マイル)沖合、水深約1,000m(3,281フィート)の地点で発見された
◎2012年9月10日、ローマが沈没した地点上空のイタリア海軍フリゲイト艦上で追悼式典が行われた
インペロ Inpero Ansaldo, Genoa-Sestri Ponente 1947/3/27 ◎1938/5/14 起工
◎1939/11/15 進水
◎戦争の可能性が確実になったため、フランスの攻撃を恐れて、インペロは1940年6月8日にBrindisiに移された。Triesteの方が良い場所と考えられたが、ローマがそこで艤装中で、造船所は一度に2隻の戦艦を扱うことができなかった。Brindisiでは、一部の機械と小口径兵器の一部が設置された。インペロをより安全な場所に移動させる意図があったにもかかわらず、Brindisiは連合軍の爆撃機の攻撃を受けたが、インペロは損傷を受けなかった。それにもかかわらず、イタリア海軍は商船団の護衛艦を緊急に必要としていたため、生産の優先順位をそちらに移すことを決定した。その結果、インペロの建造はこれらの艦船の建造を早めるために延期された。行われた作業はエンジンの取り付けと一部の砲架の設置のみであった。小型の対空・対水上兵器を装備したインペロは、1942年1月22日に自力で航行してVeniceに到着した。そののち、Triesteにふたたび移動したが、それ以上の作業は行われなかった。1943年9月にイタリアが連合国に降伏したのち、インペロはドイツ軍に接収され、スクラップとして解体される予定だった。しかし、これは明らかに完了しなかったようで、連合軍は戦後、Triesteで半ば沈んだ船体を発見した。ドイツ軍は代わりに彼女を標的艦として使用し、連合軍は1945年2月20日の空襲で同艦に損傷を与えた。その年のどこかで船体は引き揚げられ、Veniceに曳航されて座礁し、1948年から1950年にかけてそこで解体された


Update 26/06/07