輸送船
Transports

アイコン 意味
戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません
戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです
映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です
参考文献、小説や書籍に登場する事柄です
インターネットやTVゲームに登場する事柄です
不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です
※純トン数(net ton: N/T)は、総トン数(gross ton: G/T)から、機関室、船員室、バラストタンクなど貨物を積載できない部分の容積を差し引いたもので、純粋に貨物を積むことができるスペース(容積)を表す
総トン数:18,915t 純トン数:13,334t 排水量:32,160t 全長:210.92m 幅:24.99m 主缶:長方形ボイラー 主機/軸数:外輪用蒸気機関が4基、スクリュー用の追加エンジンが1基/1軸、外輪2基 出力:8,000馬力(6,000kW) 速力:14.0kt 甲板数:4 乗員:418名(乗客4,000名を収容)

↑Image courtesy of Shipbucket.

艦名 NAME 建造所 就役日 退役日 除籍日 備考
グレート・イースタン Great Eastern J. Scott Russell & Co., Millwall, England ◎1861 1854年5月1日起工、1858年1月30日進水(1857年11月3日の最初の進水は失敗し、船は進水レールに座礁した。さらに、2人が死亡、数人が負傷したため、グレート・イースタンは不運な船だと言う人もいた)、1960年6月17日竣工の蒸気船(1860年の冬に船を改装し、最初の1年間の運航中に受けた損傷を修理した。改装中、一度係留索が切れて三等戦列艦(74門砲艦)ブレンハイム Blenheimのバウスプリットを切断した)をイギリス陸軍省がチャーター。カナダへ2,000人の兵士を輸送する契約を結んだことが発表された。これは、急速に軍備を増強しているアメリカ合衆国を威嚇するための示威行動の一環だった。兵士を輸送するためのさらなる改装ののち、グレート・イースタンは2,144人の兵士、473人の女性と子供、122頭の馬を乗せてイギリスを出航し、ケベック市に向かった。ある情報源によると、この乗客数とグレート・イースタンの乗組員400人を合わせると、当時としては1隻の船に乗船した人数としては史上最多だったという。航海は成功し、船はケベックに到着した。市内の蒸気船が乗客を船から降ろすのに2日かかった。横断は記録的な速さで行われ、8日6時間かかった。グレート・イースタンの耐久性のある設計は乗船していた軍将校たちから賞賛されたが、イギリスに帰還して間もなく陸軍省が契約を打ち切り、同船は定期旅客船に戻った
1861年9月、グレート・イースタンはリヴァプールを出航して2日後に大型ハリケーンに遭遇した。船は3日間嵐に閉じ込められ、推進システムに甚大な被害を受けた。外輪は両方とも引きちぎられ、帆は剥がれ落ち、舵は200゚まで曲がり、そののち、船の唯一のプロペラによって引きちぎられた。オーストリアから帰国したアメリカ人技師ハミルトン・トウル Hamilton Towleによって応急処置のプロペラが取り付けられ、船はスクリューのみでアイルランドに向けて操舵することができた
◎1862/8/17 グレート・イースタンはリヴァプールを出航し、ニュー・ヨークに向かった。グレート・イースタンがSandy Hookを通過するには喫水が低すぎると考えた船長は、代わりにロング・アイランド湾を通る、名目上はより安全な航路を選んだ。0200時ごろ、Montauk Pointを通過中に、船は海図に記載されていない岩の尖塔(のちにグレート・イースタン・ロックと名付けられた)に衝突し、損傷。 1863年にニュー・ヨークへの往復をもう一度行ったのち、運航コストのために1864年まで係船
◎1864年1月、この船が競売にかけられることが発表された。競売中、同社の取締役4名が$125,000で入札し、落札して船の個人支配権を獲得した。そののち、このグループは海運会社を破産させ、船を倒産した海運会社から切り離し、多くの小株主の権利を剥奪した。そののち、この船はアメリカの金融家サイラス・ウェスト・フィールド Cyrus West Fieldに貸し出され、海底ケーブルの敷設に利用される予定だった。船の所有者は、ケーブル敷設船としてグレート・イースタンを貸し出す代わりにケーブル会社の株式を取得するというビジネスモデルを考案し、グレート・イースタンがケーブル敷設に成功すれば、採算の取れないこの船が所有者にとって個人的に利益をもたらすようにした
◎1865/5 グレート・イースタンはSheernessに向かい、大西洋横断電信ケーブルの敷設用の電線を積み込んだ。船主は船の使用料として電信会社の株式$250,000を要求したが、それは電線敷設が成功した場合のみであった。グレート・イースタンは、積載する22,450km(13,950 マイル)のケーブルに対応するため、サロンや部屋の一部をケーブルを収納する大型タンクに置き換えた。7月、同船はValentia Island付近で海底ケーブルの敷設を開始し、徐々に時速6ktの速度で西へ進んだ。作業は数週間は比較的順調に進んだが、大西洋の真ん中で事故によりケーブルの端が失われ、同船は1866年に新しい線を持って戻らざるを得なくなった。船の副長ロバート・ハルピン Robert Halpinは、紛失したケーブルの端を見つけ出し、ケーブルは1866年7月27日にニューファンドランドのハーツ・コンテントの岸に無事到着した
◎ハルピンはグレート・イースタンの船長となり、同船はさらに多くのケーブルを敷設した。1869年初め、同船はブレスト近郊に一連の海底ケーブルを敷設した
◎同船は1885年11月4日にロイズで競売にかけられ、衡平法裁判所の命令により売却された。入札は£10,000から始まり、£26,200ポまで上昇し、シティの商人であるマットス氏 Mr Mattosに売却された。ふたたび売却された彼女は、ショーボート、水上宮殿/コンサートホール、ジムとして使用された。そののち、売却される前に、この時点で所有者であったルイス百貨店のためにマージー川を航行し、広告看板として機能した
◎1886年、同船は1886年のリヴァプール万国博覧会 Liverpool Exhibition of 1886のためにリヴァプールに航行した。航行中に、同船は曳船の1隻に衝突してひどく損傷させた。これは、同船が損傷または沈没させた10隻の船の最後のもの。1887年5月10日、蒸気船G. E. WoodがMerseyで同船に衝突した
◎1888年にふたたび競売にかけられ、スクラップとしての価値で£16,000で落札された。船の多くの部分は、個人コレクター、元乗客、乗組員の友人によって購入され、さまざまな備品、ランプ、家具、パネル、その他の工芸品が保管された。グレート・イースタンの一部はほかの用途に転用され、あるフェリー会社は船の木製パネルをパブのバーに改造し、ランカシャーの寄宿学校の女教師は船のデッキの車掌車を子供の遊び場として使用するために購入した。解体用鉄球を用いた構造物の破壊の初期の例であるこの船は、1889年から1890年にかけて、River MerseyのNew FerryにあるSloyne付近でHenry Bath & Son, Ltd. によって解体された。船の解体には18ヶ月かかり、特に二重船体のサルヴェージが困難だった。船の解体は、解体された船のトン数に応じて賃金が支払われていた労働者たちが解体の遅さに不満を抱きストライキを起こしたため、小規模な労働争議を引き起こした
グレート・イースタンの解体後、船体解体業者が船の二重船殻に閉じ込められた作業員の遺体を発見したという噂が広まった。これはおそらく、船の船体に閉じ込められた幽霊の鋲打ち工の話が乗組員の間で広まっていたことに由来するのだろう。この伝説は1952年にジェームズ・デューガン James Duganがデイヴィッド・ダフ船長 Captain David Duffの書簡を引用して初めて広く知られるようになり、そののちも多くの資料がデューガンの著作を引用している。ほかの著者、特に同船の設計者イザムバード・キングダム・ブルネル Isambard Kingdom Brunelの伝記を著したL. T. C. ロルト L. T. C. Roltは、そのような発見は会社の記録簿に記載され、報道機関の注目を集めるはずだとして、この主張を否定しているが、この伝説は航海にまつわる幽霊話に関する書籍や記事で広く取り上げられるようになった。アルフレッド・ロスリング・ベネット Alfred Rosling Bennett著書「London and Londoners in the Eighteen-Fifties and Sixties」の中で、骸骨について“さらし台建設中に給与係が多額の金を持って姿を消し、逃亡したとされていたことが思い出された”と書き、遺体がその男を殺害した作業員によって埋められた可能性について疑問を呈している。ブライアン・ダニング Brian Dunningは2020年にこの伝説について書き、技術的には証明も反証も不可能だが、グレート・イースタンが何度も修理された際に証拠が見つからなかったことを考えると、この事件は起こり得なかったと指摘している。この伝説は、2013年にスティング Stingがリリースした曲「Ballad Of The Great Eastern」でも言及されている
◎サッカー史家のスティーブン・ケリー Stephen Kellyは、1928年にリバプール・フットボール・クラブ Liverpool Football Clubがアンフィールド・スタジアムの旗竿を探していて、その結果、この船のマスト上部を購入したと述べている。しかし、地元ジャーナリストのサイモン・ウィーディ Simon Weedyによるさらなる調査により、このマストはもともとエヴァートンFC Everton F.C. が1892年にアンフィールドを離れる前にそこに移動させたものであることが判明した。それは今日でもKop endに立っている
2011年、チャンネル4 Channel 4の番組「Time Team」は、地球物理学的調査の証拠から、船の竜骨と下部構造の鉄の残骸がまだ海岸に残っていることを示唆している
1859年、グレート・イースタンがポートランド沖で試験航海を行っていた際、船上で爆発が発生し、煙突の1本が吹き飛んだ。この煙突は回収され、そののち、イギリスのドー​​セット州WeymouthとMelcombe Regisに水を供給する水道会社に買い取られ、ろ過装置として使用された。そののち、ブルネル設計の蒸気船グレート・ブリテン Great Britainの近くにあるブリストル海事博物館 Bristol Maritime Museumに移設された
◎2007/10 グレート・イースタン・ロックから約4マイル(6.4km)離れた水深70フィート(21m)の海底で6,500ポンド(2.9t)の錨が回収されたことで、それがグレート・イースタンのものであったのではないかという憶測が広がった
◎グレート・イースタンは、スティングの2013年のアルバム「The Last Ship」に収録されている楽曲「Ballad of the Great Eastern」の題材となっている
グレート・イースタンの歴史は、James Duganのノンフィクション作品「The Great Iron Ship」に詳細に記録されている
ジュール・ヴェルヌ Jules Verneの1871年の小説「A Floating City」は、グレート・イースタンによる大西洋横断を舞台としている
1867年のリヴァプールからニュー・ヨークへの10日間の処女航海は、ギリシャの作家アンドレアス・エンビリコス Andreas Embirikosの死後に出版された8巻からなるエロティック小説「The Great Eastern」の背景となっている
グレート・イースタンとその設計者であるイザムバード・キングダム・ブルネルは、ハワード A. ロッドマン Howard A. Rodmanの2019年の小説「The Great Eastern」の中心人物であり、この小説ではエイハブ船長 Captain Ahabネモ船長Captain Nemoと対決する
◎「The Great Eastern」は、1994年から1999年までCBCラジオ・ワン CBC Radio Oneで放送されていたラジオ・コメディ番組の名称で、蒸気船にちなんで名付けられた
Ubisoftが2019年に発売した貿易管理ヴィデオ・ゲーム「Anno 1800」では、プレイヤーは艦隊に加える船としてグレート・イースタンを建造することができる。グレート・イースタンは、ゲーム内のどの船よりも大きな貨物積載量を誇り、合計8つの貨物スロットを備えている
チャイナ・ミエヴィル China Miévilleのファンタジー小説「Bas-Lag」には、海賊都市アルマダ pirate city of Armadaにグレート・イースタンをモデルにしたグランド・イースタリー The Grand Easterlyという船が登場する
船の進水、ブルネルの病気、そしてそののちの死は、ジョーダン・ムーニー Jordan Mooneyによる2019年の小説「The Great London Conspiracy」の冒頭の舞台設定となっている


総トン数:45,000t~48,000t 排水量:52,310t 全長:269.6m 幅:28.19m(ブリタニックは28.65m) 高さ(キールからマスト頂部まで):62.48m 吃水:10.54m 深さ(キールからCデッキ側面まで):19.73m 主缶:Scotch式15 bar船舶用ボイラー24基(double-ended)、ボイラー5基(single-ended):試験圧力30bar 主機/軸数:外側翼プロペラ用4-cyl. reciprocating蒸気機関2基、中央プロペラ用低圧タービン1基/青銅製3枚羽根翼プロペラ2基、オリンピックとブリタニックには青銅製4枚羽根中央プロペラ1基、タイタニックには青銅製3枚羽根中央プロペラ1基 出力:50,000馬力(最大出力59,000馬力) 速力:21.0kt(最大23.0kt) 甲板数:9 乗員:892名(乗客・乗組員・船員合わせて3,327名を収容)

↑客船オリンピック

↑客船タイタニック

↑病院船ブリタニック

↑Image courtesy of Shipbucket.

艦名 NAME 建造所 就役日 退役日 除籍日 備考
オリンピック Olympic Harland and Wolff, Belfast ◎1908/12/16 起工
◎1910/10/20 進水
◎1911/5/31 竣工
◎1911 White Star Lineにて運航(イギリス・オフィシャル・ナンバー131346)
◎1911年5月29日に海上公試を開始
1911年9月20日の5回目の航海で、ソレント海峡にて並走中にイギリス海軍防護巡洋艦ホーク Hawkeと衝突(ホークはオリンピックの船尾付近の右舷側に衝突し、オリンピックの船体に喫水線上下2つの大きな穴が開き、2つの水密区画が浸水し、プロペラシャフトがねじれた)
1912年2月24日、オリンピックはニュー・ヨーク発東行きの航海中にプロペラ・ブレードが破損
1912年4月末、サウサンプトンからニュー・ヨークに向けて出航しようとしていたとき、船内の消防士284名が、船の新しい折り畳み式救命ボートが航海に耐えられないことを恐れてストライキを起こした
◎1912年10月9日、ホワイト・スター社はオリンピックを退役させ、ベルフーァストの造船所に返却して、6か月前のタイタニックの惨事から学んだ教訓を反映させて安全性を向上させる改修を加えた(オリンピックが搭載する救命ボートの数は20隻から68隻に増加され、ボート・デッキに沿って追加のダヴィットが設置された。また、ボイラー室と機関室に内側の水密外板が作られ、二重船体となった。5つの水密隔壁がBデッキまで延長され、船体全体の高さに達した。これにより、隔壁が水面から少し上のEデッキまたはDデッキまでしか上がっていなかった元の設計の欠陥が修正された)
◎1913年3月、オリンピックはふたたび航行を開始
◎1914年8月4日、イギリスは第一次大戦に参戦した。オリンピックは当初、ハーバート・ジェームズ・ハドック船長 Captain Herbert James Haddockの指揮下で商業運航を継続した。戦時措置として、オリンピックは灰色に塗装され、舷窓は塞がれ、甲板上の照明は消灯され、船の視認性が低下した
◎1915年5月に海軍本部に徴用され、Cunard linerの定期船モーリタニア Mauretaniaとアキタニア Aquitaniaとともに兵員輸送船として使用。平時の装備を剥ぎ取られ、12ポンド砲と4.7インチ砲で武装されたオリンピックは、6,000人までの兵士を輸送できる兵員輸送船に改装された
◎1915年9月24日、新たにHMT(軍事輸送船)2810 HMT (Hired Military Transport) 2810と命名
◎オリンピックは1916年初めにガリポリ作戦が中止されるまで、地中海への兵員輸送を数回行った
◎1916年から1917年にかけて、オリンピックはカナダ政府にチャーターされ、ノヴァスコシア州ハリファックスから英国に兵士を輸送
◎1918年5月12日の早朝、アメリカ軍部隊を乗せてイギリス海峡を経由してフランスへ向かっていたオリンピックは、 500m(1,600フィート)前方に浮上中のUボートを発見した。オリンピックの砲手はすぐに発砲し、船は潜水艦に体当たりしようとしたが、潜水艦はすぐに30m(98フィート)まで急潜航し、平行針路に転じた。その直後、オリンピックは司令塔のすぐ後ろの潜水艦に衝突し、左舷のプロペラがU103の耐圧殻を切り裂いた。U103の乗組員はバラストタンクを吹き飛ばして自沈し、潜水艦を放棄した。オリンピックは 生存者を救助するために立ち止まらず、シェルブールへ向かって航行を続けた。オリンピックは、少なくとも2枚の船体板がへこみ、船首が片側にねじれた状態でサウサンプトンに戻ったが、破損はなかった。バートラム・フォックス・ヘイズ船長 Bertram Fox Hayesは、その功績により殊勲章(Distinguished Service Order: DSO)を授与された。乗組員の何人かのアメリカ兵(アメリカ歩兵第59連隊 59th Regiment United States Infantry)が、オリンピックのラウンジの一つにこの出来事を記念する銘板を設置する費用を負担
◎1919年8月、オリンピックは民間航行への復帰のためベルファーストに戻った。船内は近代化され、ボイラーは石炭焚きから石油焚きに改造された
1924年3月22日、今度はニュー・ヨークにてオリンピックはふたたび船舶との衝突事故に巻き込まれた。ニュー・ヨーク港の停泊地から後進していたオリンピックの船尾が、進路を横切っていた小型客船Fort St Georgeと衝突した。この衝突により小型船は甚大な被害を受けた。当初オリンピックの損傷は軽微と思われたが、のちに船尾柱が折れており、船尾フレーム全体の交換が必要であることが判明した
◎1927年から1928年にかけて、オリンピックは1等船室、2等船室、3等船室に加え、観光用の3等船室の乗客も運べるように改装。1年後、オリンピック号の一等船室は再び改良され、浴室が増設され、拡張された一等船室のダイニング・サロンにはダンス・フロアが設置され、Bデッキ前方にはプライヴェートな設備を備えた新しいスイートがいくつか設置された
◎1932年末、旅客輸送量の減少を受け、オリンピックは4ヶ月をかけてオーヴァーホールと改修工事を行った
1934/5/15 濃霧によりオリンピックに衝突されアメリカ商務省灯台部灯船LV-117が沈没(灯船の乗組員7名が死亡した。のちにイギリス政府はこの損失の補償としてLV-112の建造費を支払った、123
◎1935年4月5日にニュー・ヨークを最後に出航し、イギリスに戻ってサウサンプトンに係留
◎オリンピックはかつてのライヴァルであるモーリタニアの横に5か月間係留されたのち、国会議員のジョン・ジャーヴィス卿 Sir John Jarvisに£97,500で売却され、不況地域の雇用創出のためJarrowで部分的に解体された。1935年10月11日、オリンピックはサザンプトンを最後に出航し、2日後にJarrowに到着した。船の艤装品が競売にかけられたのち、解体が始まった。1935年から1937年にかけて、オリンピックの上部構造と船体上部は解体され、残りの船体は1937年9月19日にトス島へ曳航された。オリンピックは、Inverkeithingにある Thos. W. Ward's yardにて最終的な解体工事が行われ、おそらく1938年末か1939年初頭に完了した。オリンピックは1939年2月4日に船舶登録簿から抹消された
◎ニックネームはオールド・リライアブル Old Reliable
☆オリンピックの撃沈スコア(以下の艦船)
・1918/5/12 ドイツ帝政海軍潜水艦U103(49.16N、04.51Wにて体当たりにより撃沈)
タイタニック Titanic Harland and Wolff, Belfast ◎1909/3/31 起工
◎1911/5/31 進水
◎1912/4/2 竣工
◎1912/4/10 White Star Lineにて運航(イギリス・オフィシャル・ナンバー131428)
1912/4/15 氷山に衝突し沈没(乗船していた乗客乗員推定2,224人のうち、およそ1,500人(推計はさまざま)が死亡し、この事故は平時における単一船舶の沈没事故としては最悪のものとなった)
1985/9/1 ジャンルイ・ミシェル Jean-Louis Michelロバート・バラード Robert Ballard率いるフランスとアメリカの探検隊が発見に成功した(分離した船首と船尾の部分はニューファンドランド島沖のタイタニック峡谷で約0.54km(約3分の1マイル)離れた場所に横たわっている)
ブリタニック Britannic Harland and Wolff, Belfast ◎1911/11/30 起工
◎1914/2/26 進水
◎1915年11月13日、ブリタニックはベルファーストの保管場所から病院船として徴用。船体は白く塗り直され、大きな赤い十字と緑の横縞が入れられた。船内には3,309床と複数の手術室が設置された。上層デッキの共用エリアは負傷者の部屋に改装された。Bデッキの船室は医師の居住スペースとして使用された。Dデッキの1等食堂と1等応接室は手術室に改装された。下部ブリッジは軽傷者の収容に使用された。医療機器は1915年12月12日に設置された
◎1915年12月12日、リヴァプールで任務に就くことが宣言されると、ブリタニックには看護師101名、下士官336名、将校52名からなる医療チームと675名の乗組員が配属
◎1915/12/23 運用開始
◎1916年6月6日に軍務を終えたブリタニックは、大西洋横断客船への改造に必要な改修工事のためベルファーストに戻った。イギリス政府はWhite Star Lineに改修費用として£75,000ポンドを支払った。改修工事は数ヶ月続いたが、ブリタニックがふたたび軍務に復帰したことで中断された
◎1916年8月26日、海軍本部はブリタニックを病院船として再徴用し、同年9月24日に4度目の航海のため地中海へ戻った
1916/11/21 エーゲ海のKea沖にてドイツ海軍の機雷に接触し沈没(55分後に沈没、乗船していた1,066人のうち30人が死亡した。1,036人の生存者は海と救命ボートから救助された。ブリタニックは第一次大戦で失われた最大の船であった)
1975年11月13日にジャック・クストー Jacques Cousteauによってサイドスキャンソナー画像で発見された
この船の沈没は、2000年のTV映画「ブリタニック Britannic」でフィクション化され、エドワード・アタートン Edward Attertonアマンダ・ライアン Amanda Ryanジャクリーン・ビセット Jacqueline Bissetジョン・リス=デイヴィス John Rhys-Daviesが出演し、この船が密かに軍需物資を輸送していたことを理由に、ドイツの工作員が船を破壊する様子が描かれた
BBC2 のドキュメンタリー「Titanic's Tragic Twin-the Britannic Disaster」は、2016年12月5日に放送された。ケイト・ハンブル Kate Humbleアンディ・トーベット Andy Torbetが司会を務め、沈没船の最新の水中映像を使用し、生存者の親族にインタヴューを行った
歴史ドキュメンタリー・ドラマ「The Mystery Of The Britannic」は 2017 年に公開され、海洋探検家リチャード・コーラー Richard Kohlerが同船の最後の航海を調査する様子が描かれている
アルマ・カツ Alma Katsuの2020年の小説「The Deep」は、ブリタニックとタイタニックを舞台の一部とし、両船の沈没を中心に描かれている


Update 26/04/23